(最初から)
さて、事の真実は。
過ぎし秋の頃、東の七条に住まう右兵衛の舎人が、仕事帰り、
夜更けになって家に帰ろうと、応天門の前を通りかかったとき、
人の気配がして、誰かがささやき合っていることに気づいた。
外廊下の脇に隠れて見ていると、上から、柱をすべるようにして下りてくる者がある。
何者かと見れば、伴大納言であった。
続いて、その子供が下りてきて、さらに、とよ清という雑色があとに続いていた。
舎人は、何のためにそのようなことをしているのか、まったく心得ず、
さらに見ていると、そのまま三人は全速力で駆けて行った。
やがて、舎人が南の朱雀門をくぐり、二条堀川の辺を過ぎようというところで、
「大内裏の方で火事だ」
と、大路に人が出て大騒ぎになったのである。
振り返れば、確かに内裏の方だ。
走って戻ると、応天門の半ばがすでに焼けている。
ここで舎人は、
最前の連中は、この火をつけるために門の上へのぼっていたのだ、
と気づいたが、
放火は人の犯しうる最大の事でもあり、あえて口外もしなかった。
その後、左大臣・源ノ信の仕業とされ、「左大臣は罪を償うべし」と騒ぎになった。
何と、ほかに為した者があるものを、たいへんなことになったと思っていたが、
舎人の身で言い出せることではなかったから、あわれに感じているうちに、
「左大臣は赦免された」と聞き、やはり、罪の無い者は免れるのだと思ったのである。
そうして、九月になったある日。
伴大納言の屋敷で出納役を勤める者の子と、舎人の子が喧嘩をした。
これに、親である出納役が出しゃばり騒ぎ立てるので、舎人も出て見ると、
出納役が、たちまち二人の子供を引き離し、自分の子供だけを家の中に入れると、
舎人の子供の髪を掴むや打ち据え、殺さんばかりに踏みつけたのである。
これには、下っ端の舎人とはいえ、腹を立てた。
我が子も、人の子も、所詮は子供同士の喧嘩ではないか。
それを、理非も聞かず、こちらの子供ばかりを無体に打ち据えるとは、
何て悪い奴だとばかりに、
「御貴殿は、何故このように情けなくも、幼い者をこのようにするのですか」
と言えば、出納の男は、
「おぬしは何を言うか、舎人のくせに。
舎人ていどの下級官吏を、俺が打ち据えたとて何であろう。
そもそも我が君たる伴大納言殿がいらっしゃる限り、
大層な過ちをしたところで、何でもないのだ。痴れ言を抜かす、乞食め」
と罵った。
舎人もかっとなり、
「貴様こそ何を言うか。
おまえの主人は、わしの口のおかげで、人らしい顔ができていることを知らぬか。
わしが口を開ければ、おまえの主人とて、人らしくもできぬのだぞ」
と言えば、出納は腹立ちのまま家へ入ってしまった。
さて、この口論。
隣近所の人が、市をなして群がり聞いていたので、あれはどういう意味であったろうと、
あるいは妻子に語り、あるいは次々と人に語り散らしたため、
次第に騒がしく世に広がって、ついには朝廷にまで聞こえてしまった。
舎人は呼び出され、尋問されると、はじめこそ抗弁していたが、
おまえも同罪だと言われるに及び、ありのままを白状した。
そして後には大納言も罪に問われ、ことがすべて明らかになった後、
流罪にされたのである。
応天門を焼き、源ノ信の右大臣に罪を着せて、自分が筆頭大納言になれば、
やがて大臣にまで昇りうるだろうと企んだことが、
かえって自分が処罰される結果になった。
たいそう悔やまれたことであろう。
原文
伴大納言燒應天門事(つづき)
此ことは、過にし秋の比右兵衛の舎人(とねり)なるもの、東の七条に住けるが、つかさに参りて、夜更て、家に歸るとて、應天門の前を通りけるに、人のけはひしてささめく。廊の腋(わき)にかくれ立て見れば、柱よりかゝぐりおるゝ者有。あやしくて見れば伴大納言也。次に子なる人おる。又つぎに、雑色とよ清と云者おる。何わざして、おるゝにかあらんと、露心も得でみるに、この三人、走ることかぎりなし。南の朱雀門ざまに行程に、二条堀川のほど行に、「大内のかたに火あり」とて、大路のゝしる。みかへりてみれば、内裏の方とみゆ。走り歸たれば、應天門のなからばかり、燃えたるなりけり。このありつる人どもは、この火つくるとて、のぼりたりけるなりと心得てあれども、人のきはめたる大事なれば、あへて口より外にいださず。その後、左の大臣のし給へる事とて、「罪かうぶり給べし」といひのゝしる。あはれ、したる人のあるものを、いみじいことかなと思へど、いひいだすべき事ならねば、いとほしと思ひありくに、「大臣ゆるされぬ」と聞けば、罪なきことは遂にのがるゝものなりけりとなん思ける。
かくて九月斗(ばかり)になりぬ。かゝる程に、伴大納言の出納(しゅつなふ)も家の幼き子と、舎人が小童といさかひをして、出納のゝしれば同じく出でて、みるに、よりてひきはなちて、我子をば家に入て、この舎人が子のかみをとりて、うちふせて、死ぬばかりふむ。舎人思ふやう、わが子もひとの子も、ともに童部いさかひなり。たゞさではあらで、わが子をしもかく情なくふむは、いとあしきことなりと腹だゝしうて、「まうとは、いかで情なく、幼きものをかくはするぞ」といへば、出納いふやう、「おれは何事いふぞ。舎人だつる。おればかりのおほやけ人を、わがうちたらんに、何事のあるべきぞ。わが君大納言殿のおはしませば、いみじきああまちをしたりとも、何ごとの出でえくべきぞ。しれごといふかたゐかな」といふに、舎人、おほきに腹だちて、「おれはなにごといふぞ。わが主は、我口によりて人にてもおはするは知らぬか。わが口あけては、をのが主は人にてありなんや」といひければ、出納は腹だちさして家にはひ入るにけり。
このいさかひをみるとて、里隣の人、市をなして聞きければ、いかにいふことにかあらんと思て、あるは妻子(めこ)にかたり、あるはつぎつぎかたりちらして、いひさわぎければ、世にひろごりて、おほやけまできこしめして、舎人を召して問はれければ、はじめはあらがひけれども、われも罪かうぶりぬべくといはれければ、ありのきだりのことを申てけり。その後、大納言も問はれなどして、ことあらはれての後なん流されける。
應天門をやきて、信(まこと)の大臣におほせて、かの大臣を罪せさせて、一の大納言なれば、大臣にならんとかまへけることの、かへりてわが身罪せられけん、いかにくやかりけん。
適当役者の呟き
「子供の喧嘩に親が出る」ということわざの元になった話だそうです。
右兵衛の舎人:
うひょうえのとねり。
左右ひとつずつある、警護役所の雑用係、という感じ。
勤務時間:
この時代でも、夜更けになって帰宅する下っ端役人がいるのですね、と思って検索してみたら、「六位以下は日の出から日没まで」と書いてるサイトがありました。
昔の貴族は、午前中にだけ会議を行っていたみたいですが(だから「朝」廷)、そのうち会議の時間も、午後~夜になって行った模様。とすると、その準備や片づけ、雑用に追い回される下っ端は、深夜帰りも当然てことになりますね。まったく、いつの時代も。。。
伴大納言の出納と、右兵衛の舎人
「伴大納言絵巻」では、生江恒山という大納言の従僕が、備中権史生の大宅鷹取という人の子女を殺したことを発端にして、真実が明るみに出ます。それが本名なのかもしれません。
まうと
真人。貴人のこと。たぶん本来は、天武天皇ご制定の、八色の姓第一位のこと。
でも辞書に、「二人称の人代名詞。平安時代、目下の者をよぶ語」とあり、また敬語はだんだん劣化するものなので、上の適当訳では、「貴様」としています。
おれ
おまえ。おぬし。昔は「おれ」は「おまえ」だったのですね。
一人称と二人称の混同は、今時でも「何じゃわれ、やんのか?」とか使ったりします。
[2回]
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