今は昔、水尾の帝すなわち清和天皇の御代に、応天門が焼けた。
何者かが、火をつけたのである。
これを、伴善男という大納言が、
「左大臣、源ノ信(まこと)様の仕業です」
と、公に告発したため、この大臣への処罰が決まりかけた。
だが忠仁公・藤原良房が、そのことを聞いて驚き、
公はすでに、御弟である西三条右大臣・藤原良相(よしみ)に国政を譲って、
白河に引きこもっていられたが、烏帽子直垂姿ながら、乗替え馬にお乗りになり、
そのまま大内裏の兵衛府のある「北の陣」までお越しになると、
帝の御前に参り、
「ことは告発人の讒言であるやも知れませぬ。
大きな処罰をすることは、相応に、よほど大きなことであり、そのような場合、
返す返すもよく事の次第を糺し、真実と虚偽とを明らかにした後で、
然るべき処分を下すべきにござりますぞ」
と奏上したため、帝もそのとおりだと思し召しになり、
「事の次第を糺すように」
との宣旨が下されて、それで良房は引き下がった。
さて一方の、左大臣の源ノ信は、
過ちも無いのに、このような無実の罪を着せられたことを嘆き、
正装して庭に粗筵を敷き、そこで、天に向って訴えていた。
そこへ、お許しになるとの御使者として、頭中将が、早馬で駆けつけたため、
信の方では、これが即座の刑執行を告げる使者だと思い、家中で嘆き騒いだが、
かえって、お許しがあったと告げて帰って行くので、
家中、今度は喜び泣きに、大騒ぎすること限りなかった。
しかし、許されたものの、
「公職に戻っては、また無実の罪を着せられないとも限らないから」
と、もとの通り宮仕えをすることはなかった。
(つづき)
原文
伴大納言燒應天門事
今は昔、水の尾の御門の御時に、應天門やけぬ。人のつけたるになんありける。それを、伴善男といふ大納言、「これは信(まこと)の大臣のしわざなり」と、おほやけに申しければ、その大臣を罪せんとせさせ給うけるに、忠仁公、世の政は御おとうとの西三条の右大臣にゆづりて、白川にこもりゐる給へる時にて、此事を聞きおどろき給て、御烏帽子直垂ながら、移の馬に乘給乘ながら北の陣までおはして、御前に参り給て、「このこと、申人の讒言にも侍らん。大事になさせ給事、いとことやうのことなり。かゝる事は、返々よくたゞすて、まこと、空事(そらごと)あらはして、おこなはせ給べきなり」奏し給ければ、まことにおぼしめして、「たゞさせ給よし仰よ」とある宣旨うけたまはりてぞ、大臣はかへり給ける。
左の大臣は、すぐしたる事もなきに、かゝるよこざまの罪にあたるを、おぼしなぎて、日の裝束して、庭にあらごもをしきて、いでて、天道にうたへ申給けるに、ゆるし給ふ御使に、頭中將、馬にのりながら、はせまうでければ、いそぎ罪せらるゝ使ぞと心得て、ひと家なきのゝしるに、ゆるし給よしおほせかけて歸ぬれば、又、よろこび泣きおびたゞしかりけり。ゆるされ給にけれど、「おほやけにつかまつりては、よこざまの罪いで來ぬべかりけり」といひて、ことに、もとのやうに、宮づかへもし給はざりけり。
適当役者の呟き
さあ、第十巻ですよ。
有名な国宝「伴大納言絵巻」のお話。ここで一度切ります!
伴大納言
伴善男。130年ぶりに大伴氏で大納言に昇進し、このとき権力絶頂。栄華を極めました。
宇治拾遺物語第1巻「
伴大納言の事」の「犯罪」に関する詳細ですね。
応天門
大内裏の正門、朱雀門の内側にある立派な門。朝廷で一番重要な「八省堂」という建物の、正門にあたるそうです。さしずめ、霞ヶ関の正門。
源ノ信
みなもとのまこと。ゲンシン坊主とは違うので、「ノ」を入れました。
嵯峨天皇の皇子。ご兄弟も多く、臣籍降下した皇子たちは、嵯峨源氏と呼ばれます。
ちなみに嵯峨源氏の名前は「漢字一字」が家の方針で、信さんのお子様たちは、 叶、平、謹、有、好、保、任、昌。
忠仁公
藤原良房。藤原氏で最初の摂政。
日本史の教科書「摂関政治」項目の最初か、その次に出てくる人(この忠仁公・良房の父、藤原冬嗣が、摂関政治の足場を固めた、と出てきます)。
ちなみに話の中では「隠居していた」とありますが、良房さんが初めて摂政になるのは、この応天門の変の後です(当時62歳)。
wikipediaによれば、真犯人は伴大納言だ、と訴えがあったのは8月3日。忠仁公が摂政になったのは8月19日。伴大納言への処分が確定したのは9月22日です。
藤原氏は応天門の変を利用して伴氏、紀氏を打倒した、と言いますけど、実際のところは、勢力絶大だった大納言らを裁くため、ご意見番たる長老・良房さんが担ぎ出された、という感じかもしれません。
西三条の右大臣
藤原良相(よしみ)。忠仁公・良房の弟。冬嗣の五男で、有能、清廉な人だった模様。
[5回]
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