今は昔、歌人・藤原通俊が、後拾遺和歌集の歌を選出する際、
秦兼久という人がやってきて、
「私の歌は選ばれるだろうか」
と、わざわざ通俊のもとへ問い合わせた。
「どんな歌をお詠みですか?」
「大したものではありません。
後三条天皇が崩御された後、円宗寺へ参詣した時に、
花の匂いだけは昔と変らなかったことを詠んだ歌でして」
と言って、
去年見しに 色もかはらず咲きにけり 花こそものは 思はざりけれ
という歌を披露すると、通俊は、
「悪くない。とはいえ、
けれ、けり、ける、と言ってしまうあたり、大した歌ではないな。
それに、花、と言っているが、そんな言葉を使うところも、女子の名を言っているようだ」
そんなことを言って、褒めもしないので、
兼久は怒って立ち去り、従者たちがいるところへ来ると、
「おまえたちの殿様は、歌のことが分っていないのではないか。
こんな人間が、歌集の選者になるなんて世も末だ!
たとえば拾遺集掲載の、藤原公任の歌に、
春来てぞ 人も訪ひける山里は 花こそ宿の あるじなりけれ
というのがあって、世の人がこれはすばらしいと褒めている。
そこに、『人の訪ひける』とあるし、また『宿のあるじなりけれ』とある。
また『花こそ』とも言って、いずれも私の歌と同じなのに、
藤原公任の歌は良くて、私の歌が悪いといわれるのは意味不明だ!
こんな男が、和歌集の選者だなんて、とんでもないことだ!!」
さんざんに言い捨てて、出て行った。
これを聞いた従者が、あとで主人のもとへ行き、
「兼久の野郎がこんなこと言ってましたぜ」
と告げると、通俊は、
「そうか。ならばそれが正しいのかもしれない。人には言うな」
そう言ったという。
原文
秦兼久向通俊卿許悪口事
今は昔、治部卿通俊卿、御拾遺を撰ばれける時、秦兼久行き向ひて、「おのづから歌などや入る」と思ひてうかがひけるに、治部卿出でゐて物語して、「いかな る歌か詠みたる」といはれければ、「はかばかしき候はず。後三条院かくれさせ給ひて後、円宗寺に参り候ひしに、花の匂いは昔にも変わらず侍りしかば、つか うまつりて候ひしなり」とて、
「去年見しに色もかはらず咲きにけり花こそものは思はざりけれ
とこそつかうまつりて候ひしか」といひければ、通俊の卿、「よろしく詠みたり。ただし、けれ、けり、けるなどいふ事は、いとしもなきことばかり。それはさ ることにて、花こそといふ文字こそ女の童などの名にしつべけれ」とて、いともほめられざりければ、言葉少なに立ちて、侍どもありける所に、「この殿は大 方、歌の有様知り給はぬにこそ。かかる人の撰集承りておほするはあさましき事かな。四条大納言歌に、
春来てぞ人も訪ひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ
と詠み給へるは、めでたき歌とて世の人口にのりて申すめるは。その歌に、『人の訪ひける』とあり、また、『宿のあるじなりけれ』とあめるは。『花こそ』と いひたるは、それには同じさまなるに、いかなれば四条大納言のはめでたく、兼久がはわろかるべきぞ。かかる人の撰集承りて撰び給ふ、あさましき事なり」と いひて出でにけり。
侍、通俊のもとけ行きて、「兼久こそかうかう申して出でぬれ」と語りければ、治部卿うち頷きて、「さりけり、さりけり。物ないひそ」といはれけり。
適当役者の呟き
和歌のことは分りません。
治部卿通俊卿:
藤原通俊。白河天皇の側近。後拾遺和歌集のほか、いくつかの勅撰和歌集に、27首が載っているほど、優秀な歌人だったようです。
後拾遺和歌集:
wikipediaによると、
格調よりも率直な情感を重んじ過ぎたため、撰者が若輩の歌人であったこともあいまって撰進当時から批判の声が多かった。たとえば、歌壇の重鎮でありながら撰者の任に漏れた大納言源経信は、『難後拾遺』を著して論難した。
津守国基の歌が三首も入っているのは、通俊に賄賂として鰺を贈った為だと風評され、「小鰺集」の異名を得た
――そうですよ。いろいろゴタゴタと揉めごとがあったようです。
こちらに全作品が載ってますが、秦さんの作品はやっぱり載ってないようです。
http://www.kadonta.com/mokuji.html
秦兼久:
はたのかねひさ。誰だろう?
秦氏の人だというのは分りますが、ちょっと不明です。
ちなみに、秦氏の末裔に、長宗我部氏がいたり、羽田孜さんがいたりするみたいですよ。
後三条天皇:
170年ぶりに、藤原氏を外戚とせずに即位した天皇さまで、延久の善政を敷かれました。
摂関政治から院政へと、政治システムの転換を果たされとか。名君ですね。
[11回]
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