むかし、「宇治大納言物語」という本があった。
ここでいう大納言とは、源隆国のことで、
西宮左大臣源高明の孫で、また源俊賢の次男。
年をとってから、5月から8月までの間、宇治平等院の一隅、
南泉房というところで避暑するようになって、
それで、「宇治大納言」と呼ばれるようになった人だけれど、
その間、髪を結い分けた涼しげな恰好で、
板床にむしろを敷き、大きなうちわを扇がせるなどしながら、
通りかかる人間を誰かれ構わず招き入れて、いろいろな昔話をさせていた。
天竺のこと、唐のこと、日本のこと、立派な話や、かなしい話。
またきたない話や、少々のウソ話、利口な人の話。
そういった物語を冊子に書きつけて行き、さまざまな物語が集まったものだから、
多くの人を楽しませることになった。
全部で15巻。
その「宇治大納言物語」のオリジナルは、侍従・藤原俊貞という人のもとに伝わったが、
そのうち、大納言の頃より後世に追加された物語が増えて行ったという。
そして、この頃になって、またこの再編集版が出てきた。
「宇治大納言物語」から漏れた話を集め、またその後の話を追加したもので、
宇治拾遺の物語という。
宇治に残った話を拾うという意味なのか、
あるいは、侍従を「拾遺」とも言うので、宇治拾遺物語というのか、
そこら辺は、ちょっと分らない。
原文
世に宇治大納言物語といふ物あり。此大納言は隆國といふ人なり。西宮殿の孫俊賢大納言の第二の男なり。年たかうなりては、あつさをわびていと まを申て、五月より八月までは平等院一切經藏の南の山ぎはに南泉房といふ所にこもりゐられけり。さて宇治大納言とは聞えけり。もとゞりをゆひわけてをかし げなる姿にて、むしろをいたにしきてすゞみゐはべりて、大なるうちはをもてあふがせなどして、往來の者たかきいやしきをいはずよびあつめむかし物語をせさ せて、我はうちにそひふして、かたるにしたがひておほきなる双紙にかゝれけり。天ぢくの事もあり、大唐のこともあり、日本の事もあり。それがうちにたふと きこともあり、あはれなる事もあり、きたなき事もあり、少々はそら物語もあり、利口なることもあり、さまざまなり。世の人これをけうじみる。十五帖なり。 その正本はつたはりて、侍從俊貞といひし人のもとにぞありける。いかになりにけるにか、後にさかしき人々かきいれたるあひだ物語おほくなれり。大納言より のちの事かき入たる本もあるにこそ。さるほどにいまの世に又物がたりかきいれたるいできたれり。大納言の物語にもれたるをひろひあつめ、またその後の事な どかきあつめたるなるべし。名を宇治拾遺の物語といふ。宇治にのこれるをひろふとつけたるにや、又侍從を拾遺といへば宇治拾遺物がたりといへるにや、差別 しりがたし、おぼつかなし。
(適当訳者の呟き)
左大臣源高明:
有力者だったようですが、摂関政治でがんばる藤原氏の策謀により太宰府に流されました。安和の変。
その子供、源俊賢:
そんなわけで父親が藤原氏に嫌われたものの、妹が藤原道長に嫁いだので、政界復帰。
「一条朝の四納言」と呼ばれるほど、有能だったようです。
侍従・藤原俊貞:
宇治大納言・隆国さんの、孫じゃね? とかいう説がありましたが、よく分らないようです。
侍従を拾遺という:
中納言を黄門といったり、右大臣を右府、内大臣を内府といったりするような、官職の唐名で、侍従を「拾遺」と言うのだそうです。有名な詩人の杜甫も、拾遺だったことがあるみたいです。
[41回]
PR