さて、第11巻までの現代語訳が終りまして、残りはだいたい3分の1。
適当訳者は、自分であれこれ勉強しながら、現代語訳を進めているので、
ここで唐突に、
「今は昔」
について、書いておきます。
教科書などを見ると、この
「今は昔」は、
「今となっては昔のことだが――」
というような意味だとされていますが、この適当訳ブログでは、
「決まり文句的に置いてある」
と判断して、訳していません。
けれど、
「今は昔」は、いくら古文だといっても、文法的にはおかしいわけです。
たとえば、
「今は昔、じゃないけど」とか、
「今は、昔のことを話してみよう」
というふうにやるならともかく、
「今は昔、竹取のおきなというものありけり」
とあったとき、日本人的には、「何だこの文法は???」と不安になり、
仕方なく現代語訳を読んでみた挙句、
「今となっては昔のことだが――なんて、どこにも書いてないじゃないか!」
と思うに決っています。
で。
この「今は昔」という決まり文句について、検索してみると、九州大学の春日和男教授が、
本当は「今は昔……となむ語り伝へたる」という形式があった
ことを、指摘されていました。
つまり、
「昔、こういう人がいて、こういうことをした、と今は語り伝えられている」
という形式が、本来の用法であったと。
難しく引用すると、
「今は昔」は説話乃至は説話的物語(昔物語)において、必ず文頭にあらはれ、これが文中に用ゐられることはない。のみならずこれの修飾機能は、文末の「……とそいひつたへたる」乃至はそれに類似の句を被修飾語として、それに従属する。つまり、「今は昔」が説話内容を中に挿んで、「とそ語りつたへたる」に呼応するわけであって、かく見ることにおいて説話文は総べて一文構成の文体であることを原則とし、文頭の副詞は文末の述語を修飾するといふ極めて自然な構文観が成立する
「『昔』と『今は昔』―「今昔考」補説」春日和夫、九州大学学術情報リポジトリ「語文研究 24 p1-12」1967-10-25
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/12237/1/p001.pdf
この春日先生の指摘によれば、
「今は昔」は、
「今となっては昔のことだが」
という、間の抜けた、こじつけめいた日本語ではなく、
「昔、これこれの話があって、今こうして伝わっている」
という意味で使われていた、ということになります。
すなわち、
「今は、昔こういう人がいて、これこれために仏様に感謝した、というふうに伝わってるぜ」
という感じで、現代日本語でも自然に使えるということです。
ただ、この
「今は昔……となむ語り伝へたる」形式も、
宇治拾遺物語の頃になると、もう面倒くさくなってきたようで、
文末の
「となむ語り伝えたる」が省略されたり、
冒頭の「今は昔」が、ただの「昔」とごっちゃになったりしていて、
いつの間にやら、現代古文において、
「今となっては昔のことだが――」
論が優勢になって行く、という次第のようです。
適当訳者としては、自然な日本語の春日先生の説に賛成しつつ、
適当訳でそれをやると分りにくいので、
「今は昔」は、決まり文句的に「今は昔」と置く、
という方針にしてみたいと思いますー。
[12回]
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