(最初から)
翌日。
屋敷に残っていた者たちが、
「今日は殿のお戻りがあるだろう」
と待っていると、申の時すなわち夕方四時頃に、到着した。
例の娘が、その帰着や遅しとばかりに、多くのものを用意して届けるので、
女も何ともいえず、頼もしい思いになる。
やがて例の武士が、女のもとへ上ってきて、
あれこれ話をして、ともに寝ることとなった。
そして、朝になれば女を連れて行くぞと言えば、
女はどうなってしまうのかと不安に思ったが、仏が夢に、
「言うに従うが良い」
と告げたことを頼りに、ともかく、武士の言葉どおりにすることに決めた。
例の娘は、その間にも早朝出立の支度を、大忙しで切り盛りしていたから、
女の方では、またありがたさ、いとおしさが増して、
何か贈ろうと思うけれど、与えるべきものが何も無い。
ただ、いずれ使う用途もあるだろうと、
紅の生絹(すずし)の袴が一つあるので、これを贈ろうと、
自分は男の脱いだ生絹の袴を身につけて、その娘を呼び寄せると、
「数年、おまえのような人がいるとは知らなかったのに、
思いもかけぬ時に来てもらい、恥をかかねばならぬところを、
このようにしてもらい、この世のことではないように喜ばしく存じました。
この気持をどのように伝えたら良いか。せめてもの志に、これを」
と、紅の袴を与えようとした。
けれど娘の方では、
「何と情けない。人に間違って見られた際、お姿が余りにあわれでいらっしゃってはと、
ご支援しただけですのに、何ゆえに、このようなことまでしていただきましょう」
と言って受け取らないのを、女は、
「この数年というもの、誘う水があれば、と思い続けていたところ、
思いがけず、あの御方が私を『連れて行こう』と仰ったからには、
明日のことは分らぬ世の中ですが、御言葉に従って参ろうと思うのです。
これはわたくしの形見と思い、受け取って」
と、強いて取らせようとすれば、娘の方も、
「わたくしへの志は、返す返すも、おろそかにするつもりはありませんが、
形見と仰せになるのが、何より有り難く」
と、受け取るのを、すぐ傍で、武士も寝ながら聞いていた。
さて明け烏が鳴けば、急いで、例の娘の用意したものなどを食べ、馬に鞍を置き、
旅の武士が女を連れて表へ出て、さあ馬へ乗せようとするときに、
「人の命がどうなるか分らぬ世の中なれば、又拝む日がありましょうか」
と、女はいそいで旅装束のまま手を洗い、
屋敷の裏のお堂へ参って、観音様へ拝礼すべく見あげたところ、
観音の御肩に、赤いものがかけられていた。
不思議に思い、見れば、それは例の下女へ贈った袴であった。
これはどういうこと。
端女の娘とばかり思っていたのは、それでは、この観音がしてくださったことか。
そう思った途端、涙は雨しずくのように降って、
忍ぼうにも転び泣く気色になっていたところへ、夫たる武士が聞いて、
不思議に思いつつ走り来て、
「どうしたのか」
と問えば、女の泣きようは明かで、
「如何なることがあったのか」
と、詳しく事情を尋ねる夫へ、
不思議な娘が思いがけず来訪し、さまざま面倒を見てくれたことなどを細かく語った。
「そのお礼にと贈った紅い袴が、観音様にかかっているのです」
と言い終るより先に、声を立てて泣くので、
男も寝たふりをしていたときに聞いた、女に与えた袴がそれであったかと心を打たれ、
同じように泣き始めた。
郎党たちも、もののあわれを知る者は手をこすって泣いた。
そうして、一行はお堂の戸を閉め切って、美濃国へと渡っていったのである。
その後も、この男女は思いを交わし、脇目を振ることもなく暮して、子も多く産んだ。
この敦賀の地にも不断に訪れ、観音に返す返す、お仕えしたのだった。
例の娘については、
「このような人はいますか」
と、近く遠くと尋ねさせたが、どこにもそのような女はいなかった。
その後も、二人を訪ねて来ることはなかったため、
あれはやはり、ひとえに、あの観音のされたことであったろう。
やがてこの男女は、お互いが七十、八十歳になるまで過して、家栄え、
男子、女子を多く育んで、死の別れによって、ついに別れることとなったという。
原文
越前敦賀の女、観音たすけ給ふ事(つづき)
又の日になりて、このあるものども「けふは殿おはしまさんずらんかし」と待ちたるに、申の時ばかりにぞつきたる。つきたるや遅きと、此女、物ども多くもたせてきて、申のゝしれば、物たのもし。此男、いつしか入きて、おぼつかなかりつる事などいひ臥したり。暁はやがて具して行べきよしなどいふ。いかなるべきことにかなど思へども、仏の「たゞまかせられてあ れ」と、夢にみえさせ給しをたのみて、ともかくも、いふにしたがひてあり。この女、暁たゝんまうけなどもしにやりて、いそぎくるめくがいとほしければ、なにがなとらせんと思へども、とらすべき物なし。おのずから入事(いること)もやあるとて、紅なる生絹(すゞし)の袴ぞ一(ひとつ)あるを、これをとらせてんと思ひて、我は男のぬぎたる生絹の袴をきて、この女をよびよせて、「年比は、さる人あらんとだに知らざりつるに、思もかけぬ折しも来あひて、恥がましかりぬべかりつる事を、かくしつることの、この世な らずうれしきも、なににつけてか知らせんと思へば、心ざしばかりに是を」とて、とらすれば、「あな心うや。あやまりて人の見奉らせ給に、御さまなども心うく侍れば、奉らんとこそ思ひ給ふるに、こはなにしにか給はらん」とて、とらぬを、「この年比も、さそふ水あら ばと、思ひわたりつるに、思もかけず、「具していなん」と、この人のいへば、あすは知らねども、したがひなんずれば、かたみともし給へ」と て、猶、とらすれば、「御心ざしの程は、返々もおろかには思給まじけれども、かたみなどおほせらるゝがかたじけなけれ ば」とて、とりなんとするをも、程なき所なれば、この男、聞きふしたり。
鳥鳴ぬれば、いそぎたちて、此女のし置きたるもの食ひなどして、馬にくら置き、引いだして、のせんとする程に、「人の命しらねば、又おがみ奉らぬやうもぞあう」とて、旅装束しながら、手あらひて、うしろの堂に参りて、観音をおがみ奉らんとて、み奉るに、観音の御肩に、あかき物かゝりたり。あやしと思ひて見れば、この女にとらせし袴なりけり。こはいかに、この女と思ひつるは、さは、この観音の、せさせ給なりけりと思ふに、涙の、雨しづくとふりて、しのぶとすれど、ふしまろび泣くけしきを、男聞きつけて、あやしと思ひて、走きて、「なに事ぞ」と問ふに、泣くさま、おぼろけならず。「いかなることのあるぞ」とて、みまはすに、観音の御肩に赤き袴 かゝりたり。これをみるに、「いかなることにかあらん」とて、ありさまを問へば、此女の、思もかけず来て、しつるありさまを、こまかに語て、「それにとらすと思つる袴の、此観音の御肩にかゝりたるぞ」といほいもやらず、こゑをたてて泣けば、男も、空寝して聞きしに、女にとらせつる袴にこそあんなれと思ふがかなしくて、おなじやうに泣く。郎等共も、物の心しりたるは、手をすり泣きけり。かくて、たて納め奉て、美濃へこえにけり。
其後、おもひかはして、又よこめすることなくてすみければ、子ども生みつゞけなどして、この敦賀にも、つねに来通ひて、観音に返々つかうまつりけり。ありし女は、「さる者やある」とて、近く遠く尋させけれども、さらにさる女なかりけり。それより後、又おとづるゝこともなかりければ、ひとへに、この観音のせさせ給へるなりけり。この男女、たがひに七八十に成まで栄えて、男子、女子生みなどして、死の別れにぞ別れにける。
適当訳者の呟き
長かった……。
でも最後、観音の正体が明らかになるくだりの書きぶりは、すばらしいものだと感じました。
といったところで、今年の更新はこれでおしまいです。みなさま、良いお年をお迎え下さいー。
生絹
すずし。生糸(きいと:灰汁で煮ないもの)で織った布。
高価な布の代名詞「練絹(ねりぎぬ)」に較べると、安い布です。
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