これも今は昔、
橘大膳亮大夫以長(もちなが)という、蔵人の五位の官人がいた。
さて法勝寺で千僧供養の儀式が開催された折、
鳥羽上皇の行幸があり、主人である宇治左大臣・頼長公もご出席された。
先に別の公卿の車があり、頼長公の車はあとから到着したため、
手前で車を止められて、そこで公の随身たちは車から降り、
公の御車を奥へ進ませることになったが、
以長だけが一人、自分の牛車から降りなかった。
どういうわけだとみなが気にしているうちに、
ともかく儀式は終ってしまったため、
屋敷へ戻ってから、頼長公は、
「最前は、一体どうしたことか。
他の公卿の車に行き会い、礼節どおりに車が止められて、
他の随身たちがみな車から降りた時に、以長だけが降りなかった。
何も知らぬ未熟な者でもあるまいに」
と仰せになった。
それで以長が申し上げるには、
「何という仰せでございましょうか。礼節と申すなら、
先に到着した者は、あとより貴人が到着した際には、車の前後を返し、
やって来る貴人の御車を迎え、牛を車より外し、
牛車の頸木(くびき)を榻(しじ)台の上に置いて、
先へ通すことこそ礼節と申します。
しかるに、最前、先に到着していた者たちは、公の御車をとどめたとはいえ、
こちらへ尻を向けて通そうとした。
これは礼節とは申さず、無礼をいたしたものと見えたため、
そのような者の中へ何故降りなければならないのかと思い、
降りなかったものでございます。
何かの間違いかとも思い、近くへ寄って一言伝えようかとも思いましたが、
なにぶん以長は年老いまして、それは思いとどまった次第です」
頼長公は、
「いや、そんな作法があっただろうか」
と思い、さる御方に、
「こんなことがありましたが、まことにその通りなのでございましょうや」
と尋ねると、
「以長は、古侍であるな」
と、仰せがあったという。
往古は、あとから貴人が来た際には牛車より牛を外し、車から降りやすいよう、
轅(ながえ)の下に榻の台を置いたもので、それこそが礼節であったという。
原文
大膳大夫以長先駆の間の事
これのいまは昔、橘大膳亮大夫以長といふ蔵人の五位ありけり。法勝寺千僧供養に、鳥羽院御幸ありけるに、宇治左大臣参り給けり。さきに、公卿の、車行けり。しりより、左府参り給ければ、車をおさへてありければ、御前の髄身、おりて通りけり。それに、此以長一人をりざりけり。いかなることにかと見る程に、帰らせ給ぬ。さて帰らせ給て、「いかなることぞ。公卿あひて、礼節して車をおさへたれば、御前の髄身みなおりたるに、未練の者こそあらめ、以長おりざりつるは」と仰らる。以長申やう、「こはいかなる仰せにか候らん。礼節と申候は、まへにまかる人、しりより御出なり候はば、車をやりかへして、御車にむかへて、牛をかけはづして、榻(しぢ)に軛木(くびき)を置きて、通し参らするをこそ礼節とは申候に、さきに行人、車をおさへ候とも、しりをむけ参らせて通し参らするは、礼節にては候はで、無礼をいたすに候とこそ見えつれば、さらん人には、なんでうおり候はんずるぞと思て、おり候はざりつるに候。あやまりてさも候はば、打よせて一言葉申さばやと思候つれども、以長年老候にたれば、おさへて候うつるに候」と申ければ、左大臣殿「いさ、このこといかゞあるべからん」とて、あの御かたに、「かかる事こそ候へ。いかに候はんずることぞ」と申させ給ければ、「以長ふるざびらひに候けり」 とぞ仰事ありける。むかしは、かきはづして榻(しぢ)をば、轅の中に、おりんずるやうに置きけり。これぞ礼節にてはあんなるとぞ。
適当訳者の呟き:
さて第8巻を始めますか!
牛車の儀礼にもいろいろあったのですね。
大膳大夫以長:
橘以長。
巻五 (72)以長、物忌の事にも登場してまして、主人の悪左府こと頼長さんをやり込めてます。
頼長さんは、割と故実に詳しい人として有名ですが、この以長のような、口うるさい随身が側にいたお陰かも知れません。
法勝寺:
ほっしょうじ。もと藤原氏の別荘で、頼通の息子、帥実さんが、白河上皇へ献上、上皇がお寺に改造しました。
千人供養:
千人を供養するのです。坊主千人、ではなく、故人千人みたいです。
要するに、大がかりな仏事ですね。
宇治左大臣:
悪左府こと藤原頼長。保元の乱の中心人物で、首を斬られます。
(72)以長、物忌の事にも登場。
轅、軛木、榻、:
左から、ながえ、くびき、しじ。
牛車の本体から、にゅ、にゅっと伸びているのが、轅、ながえ。長いですから。
先頭で、牛に引っ張らせる部分が、軛木、くびき。牛の首をこの下に固定する木です。
で、牛を車から外した後、不安定なくびきの下にあてがって、車を支えるのが、しじ。支え、持つからですね(語源は違うかも)。
牛車の各パーツについては、ここで完璧。
http://tukineko.pekori.jp/heian/yougo2/gissya/gissya.html
牛車の作法補足:
六位以下は牛車に乗れません(以長は五位なので、頼長さんの家来ですけど、乗れました)。
牛車は後ろから乗って、前から降ります(その際、「しじ」を踏み台にします)。
[3回]
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