(
最初から)
引き立てられるまま、敏行が先へ行くと、大きな川があった。
水は黒々としており、あたかも濃く磨った墨の色をして流れている。
おかしな水の色だと思い、
「これはどのような水で、何故このような墨の色をしているのですか」
と尋ねると、
「知らぬか。これこそ、汝が書き奉った、法華経の墨が流れたものだ」
と、獄卒は答える。
「それがどうして、このように川へ流れているのですか」
「心を正しく、真を込めて清浄に書き奉られた経文は、
そのまま王宮へ納められることとなる。が、汝の為したように、
心汚く、汚らわしい身で書かれた経文は広野に打ち捨てられるゆえ、
その墨が雨で濡れて、川へ流れ込むこととなる。
つまりこの川は、汝が書いた経文の墨である」
と、そんなことを言われて、敏行は恐ろしくてさらに言葉もない。
「それでは、このことは、どうして助かることができますか。
どうか教えてください、助けて下さい」
と泣く泣く言うと、
「悪くもない罪ならば助かる方法もあるが、このことは心へも及び、
口で弁解できるような罪でもない。かわいそうだが、どうしようも無い」
そんな答えであったから、もはや言葉もない。
ただ引きずられるだけであった。
やがて恐ろしい様相の輩が駆けてきて、
「遅いぞ」
と叱りつける。
獄卒はそれを聞くと、さらに急いで敏行を率いて行く。
さて、大きな門の前へ引き据えられた敏行。
首枷などというものを嵌められ、縛り上げられ、
堪えがたい思いで見渡せば、そこには数も知らず、
十万人ほども群がり集って、集門内に隙間なく満ちている有様であった。
先ほど行き会った軍隊が目を怒らし、舌なめずりをして、
敏行を見つめて、早く来い、早く来いと言わんばかり。
もはや土を踏む心地さえ無く、
「ああ、ああ、どうしたら良いのか」
と呟いていると、そこへ控えていた者が、
「四巻経を書き奉る旨、今すぐ発願せよ」
とひそかに言うので、敏行は、
今まさに門をくぐるというところで、
自分の罪科は四巻経を書き、供養して贖う――と、願をかけた。
敏行は門の中へ入り、庁舎の前へ引き据えられた。
裁判人が、
「あれが敏行か」
と問うと、
「左様でございます」
と、連行してきた者が答える。
「しきりに訴えのあるものを、なぜこのように遅く参ったのか」
「召し捕りましたまま、遅滞なく引き立てて参りました」
と、獄卒は答える。
「では娑婆世界にて、何か為したことはあるか」
と裁判人が敏行に尋ねた。
「為したことは特にございませんが、
人に頼まれるまま、法華経を二百部書いております」
それを聞くと、裁判人は、
「汝がもともと受けている命は、もう少しはあった。
しかるに、汝の書いた法華経が汚らわしく、清くないまま書かれた旨の訴えがあり、
こうして絡め取ってきたものである。
この上は、すみやかに、訴え出た者へ汝の身柄を下げ渡し、
彼らの思いのままにさせようと思うぞ」
と言えば、そこへ集っていた軍隊たちは、大いに喜色を見せた。
そして連中が、さあ身柄をこちらへと、受け取ろうと出てきたとき、
敏行がわななき、わななきながら、
「四巻経を書き、供養しようと宿願したのを、にわかに召し立てられたため、
未だ遂げずにおります。この罪は、なかなかに重たいものであると存じます」
と申し出た。
裁判人は驚いて、
「そんなことがあったのか。もし、まことであれば問題である。
過去帳を引いて、調べよ」
と命ずれば、別の者が大きな巻物を取り出し、
それを引き出していちいち見れば、確かにそこには、
彼が生前に為したことが一つも漏らさず記しつけられていた。
しかも罪つくりのことばかり掲載されていて、功徳になることは一つもない。
……が、門へ入る直前に立てた、四巻経の発願が、奥の奥に記されていた。
過去帳の巻物を引き切って、もうダメだ、と思った時に、
「あ、そのようなことがあります。ここの、最後の部分に書かれています」
と報告があったから、
「なるほど、それはいかん。
このたびは暇を許し、ともかく、その発願を遂げさせるべきである」
という裁定になった。
それで、目を怒らせ、早く敏行の体を奪おうと、
手をなめていたような軍隊どもも、失せてしまった。
「確かに娑婆世界へ戻り、その発願を遂げて来い」
裁判人からそう言われて、ああ、許された――と思ううちに、
敏行は生き返ったのである。
(つづき)
原文
敏行朝臣の事(つづき)
また行けば、大きなる川あり。その水を見れば、濃くすりたる墨の色にて流れたり。怪しき水の色かなと見て、「これはいかなる水なれば、墨の色なるぞ」と問へば、「知らずや。これこそ汝が書き奉りたる法華経の墨の、かく流るるよ」と言ふ。「それはいかなれば、かく川にて流るるぞ」と問ふに、「心のよく誠をいたして、清く書き奉りたる経は、さながら王宮に納められぬ。汝が書き奉りたるやうに、心きたなく、身けがらはしうて書き奉りたる経は、広き野に捨て置きたれば、その墨の雨に濡れて、かく川にて流るるなり。この川は、汝が書き奉りたる経の墨の川なり」といふに、いとど恐ろしともおろかなり。「さてもこの事は、いかにしてか助かるべき事ある。教へて助け給へ」と泣く泣くいへば、「いとほしけれども、よろしき罪ならばこそは、助かるべき方をも構へめ。これは心も及び、口にても述ぶべきやうもなき罪なれば、いかがせん」といふに、ともかくもいふべき方なうて行くほどに、恐ろしげなるもの走りあひて、「遅く率て参る」と戒めいへば、それを聞きて、さきだてて率て参りぬ。大きなる門に、わがやうに引き張られ、また頸枷などいふ物をはげられて、結ひからめられて、堪へ難げなる目ども見たる者どもの、数も知らず、十万より出で来たり。集まりて、門に所なく入り満ちたり。門より見入るれば、あひたりつる軍ども、目をいからかし、舌なめづりをして、我を見つけて、とく率て来かしと思ひたる気色にて、立ちさまよふを見るに、いとど土も踏まれず。「さてもさても、いかにし侍らんとする」と言へば、その控へたる者、「四巻経書き奉らんといふ願をおこせ」とみそかにいへば、今門入るほどに、この科は四巻経書き、供養してあがはんといふ願をおこしつ。
さて入りて、庁の前に引き据ゑつ。事沙汰する人、「彼は敏行か」と問へば、「さに侍り」と、この付きたる者答ふ。「愁へどもしきりなるものを、など遅くは参りつるぞ」と言へば、「召し捕りたるまま、滞りなく率て参り候ふ」と言ふ。「娑婆世界にて何事かせし」と問はるれば、「仕りたる事もなし。人のあつらへに従ひて、法華経を二百部書き奉りて侍りつる」と答ふ。それを聞きて、「汝はもと受けたる所の命は、今暫くあるべけれども、その経書き奉りし事の、けがらはしく、清からで書きたる愁への出で来て、からめられぬるなり。すみやかに愁へ申す者どもに出し賜びて、彼らが思ひのままにせさすべきなり」とある時に、ありつる軍ども、悦べる気色にて、請け取らんとする時に、わななくわななく、「四巻経書き、供養せんと申す願ひの候ふを、その事をなんいまだ遂げ候はぬに、召され候ひぬれば、この罪重く、いとどあらがふ方候はぬなり」と申せば、この沙汰する人聞き驚きて、「さる事やはある。まことならば不便なりける事かな。帳を引きて見よ」と言へば、また人、大きなる文を取り出でて、ひくひく見るに、我がせし事どもを一事も落とさず、記しつけたる中に、罪の事のみありて、功徳の事一つもなし。この門入りつる程におこしつる願なれば、奥の果に記されにけり。文引き果てて、今はとする時に、「さる事侍り。この奥にこそ記されて侍れ」と申し上げれば、「さてはいと不便の事なり。この度の暇をば許し給びて、その願遂げさせて、ともかくもあるべき事なり」と定められければ、この目をいからかして、われをとく得んと、手をねぶりつる軍ども失せにけり。「たしかに娑婆世界に帰りて、その願必ず遂げさせよ」とて、許さるると思ふほどに、生き返りにけり。
適当訳者の呟き
さらに続きますー。
四巻経:
金光明経のこと。四巻あるため。
金光明経の内容は、「空の思想を基調とし、この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護する――」とwikipediaに書いてあります。
日本で国分寺や四天王寺が建立され、最勝会(さいしょうえ)、放生会(ほうじょうえ)が催されたのは、この金光明経の教えに基づくものだそうですよ。
国家のためのお経。
不便:
ふびん。
1 (不憫)かわいそうなこと。あわれむべきこと。
2 都合が悪いこと。
どちらでも読めるのですが、八つ裂きにされても構わないような敏行なので、一時放免するのは「かわいそうだから」ではなく、「せっかくの発願を邪魔したら問題になるから」という解釈で、2番だと思いました。
[2回]
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