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何て奴だと、憎く思われたのであろう。
帝釈天は、留志長者の姿に化けると、彼の家へやって来て、
「山において物惜しみの神を祀ったところ、神がわしの中より離れて、
もはや惜しいものなど無くなった。ゆえに、こうするのだ」
と、蔵という蔵を開けさせると、
妻子をはじめとして従者たちそれから家の外の連中、
回国修行者から乞食に至るまで、あらゆる者たちに、
蔵の宝物を取り出しては配りとらせたものだから、みなみな大喜びして受けとる。
そこへ、本物の留志長者が帰ってきた。
蔵がみな開け放たれて、しかもそこらの連中が、中の宝を取り合いしているから、
驚愕、憤懣、言葉にならぬほどで、
「なんでこんな真似を!」
と怒鳴り散らすが、長者とまったく同じ姿の者が率先して行っているのだから、
不思議なること限りなし。
「あ、あれは変化、物の怪の類ぞ! わしこそが本物だぞ!」
と言うが、聞き入れる者もなかった。
あわてふためいて、長者が帝へ訴え出ると、
「母親に聞いてみよ」
と仰せがあるので、母に問うと、
「惜しみなく人にものを配る者こそ我が子だ」
というからどうしようもない。
だがようやく、
「そういえば、息子は腰のあたりに、ほくろの跡があったな。
それを証拠に、確認すれば良いぞ」
と言うので、着物を広げてみたが、
帝釈天もそれを真似られて、二人とも同じようにほくろがあるので、何ともならない。
それで、今度は二人そろって仏の御もとへ参上したところ、
ようやく帝釈天がもとの姿に戻ったから、これで論ずるまでもない――と決った。
そうして長者は、仏の御力で、須陀洹果(しゅだおんが)という、
修行の段階を踏んで悪心が消えたため、物惜しみする心も失せたという。
このように、帝釈天が人を導かれることは数限りない。
留志長者は財宝を失うことになったが、これは、
慳貪・吝嗇・物惜しみの業によって地獄へ落ちるべきであったところを、
哀れに思うお志を起こされ、ありがたくも行動をされたのである。
原文
留志長者の事(つづき)
にくしとおぼしけるにや、留志長者がかたちに化し給て、彼家におはしまして、「我、山にて、物をしむ神をまつりたるしるしにや、その神はなれて、物のをしからねば、かくするぞ」とて、蔵どもをあけさせて、妻子をはじめて、従者ども、それならぬよその人々も、修行者、乞食にいたる迄、宝物どもをとりいだして、くばりとらせければ、みなみな悦て、わけとりける程にぞ、誠の長者はかへりたる。
倉共みな明て、かく宝どもみな人の執あひたる、あさましく、かなしさ、いはん方なし。「いかにかくはするぞ」と、のゝしれども、われとたゞおなじかたちの人出きて、かくすれば、不思議なること限なし。「あれは変化のものぞ。我こそ其よ」といへど、きゝいるゝ人なし。御門にうれへ申せば、「母上に問(と)へ」と仰あれば、母に問ふに、「人に物くるゝこそ、わが子にて候はめ」と申せば、する方なし。「腰の程に、はゝくそと云物の跡ぞさぶらひし、それをしるしに御らんぜよ」といふに、あけてみれば、帝釋それをまねばせ給はざらむたは。二人ながらおなじやうに、物のあたあれば、力なくて、仏の御もとに、二人ながら参りたれば、其とき、帝釋もとのすがたになりて、御前におはしませば、論じ申べき方なしと思ふ程に、仏の御力にて、やがて須陀ねん果(ねんくは)を證したれば、悪き心はなたれば、物をしむ心もうせぬ。
かやうに、帝釋は、人をみちびかせ給事、はかりなし。そゞろに、長者が財をうしなはむとは、何しにおぼしめさん。慳貪の業によりて、地獄に落べきを哀ませ給ふ御心ざしによりて、かく構へさせ給けるこそめでたけれ。
適当役者の呟き:
帝釈天「にくしとおぼしけるにや」といってますが、まあ、その結論でも良いですね。
仏さまや帝釈さんが普通に出てくるところがおもしろい感じです。
ははくそ:
ほくろ。
須陀ねん果:
しゅだおん=須陀洹、だと思いました。
煩悩を脱して聖者の境地に入った位。四果の第一、と出ます。
[2回]
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