今は昔、清徳聖というお坊さんがいた。
この人は、自分の母親が死んだ時、一人で棺桶に入れ、
愛宕山に運ぶと、棺の四隅に大きな石を置き、
千手陀羅尼のお経を休むことなく唱え続けられたという、奇特の僧であった。
寝ることもしなければ、物も食わず、湯水さえ飲まずに三年間。
経文を唱えつつ棺桶の周りを巡って、声の絶えることが無かったという。
そうして、三年経った春の日、夢かうつつか、ぼんやりしていた時、
ほのかに母親の声がして、
「おまえの陀羅尼経のおかげで、私は男子となり、天に生れ変ることができました。
しかし、せっかくだから仏にぼりつめてからおまえに報告しようと、
今まで黙っていたのです。私は今や仏になりました。ありがとう、ありがとう」
そのことを聞くと、清徳聖は、
「そうだろうと思っていた。これで本当に成仏したのだろう」
と、亡骸をその場で焼いて骨にし、埋めた上へ卒塔婆などを立てて墓らしくつくり、
京都へ戻ることにした。
やがて、西の京に通りかかり、
水葵(水葱)のたくさん生えているところへさしかかった。
聖は、お経を唱え終ってからというもの、空腹で死にそうになっていたから、
これ幸いとばかりに、水葵をへし折って食い始めたところ、地主がやってきた。
地主は、立派な聖人とも見える坊さんが、
水葵なんかを、もしゃもしゃ食っているので、オイオイと思い、
「どうしてこんなことをしているんですか」
「あまりに腹が減って、死にそうなので」
「あ、そうですか。それなら、ええ、はい、どうぞ好きなだけ召し上がり下さい」
というと、聖はさらに三十本ほど、
ばりばりもしゃもしゃ、手折っては食べ続けた。
水葵は、三百メートルほどの敷地に植えていたし、
地主の男は哀れに思いつつも、これを食う奴など珍しいと思ったから、
「さあどんどん召し上がれ、お好きなだけどうぞ」
と勧め続けると、
「ありがたい」
聖は、腰を屈めながら敷地中の水葵をほとんど食べ尽くしてしまった。
地主男は、
「それにしても、とんでもないものを食べる坊さんだ。
ちょっとこの場でお待ちください。まともな食べ物をお持ちしましょう」
と、今度は貴重な白米を、1000人前ほども炊いて提供すると、
聖は、
「ここ数年、何も食べず、死にそうだったのだ」
と言って、全部食べて行ってしまった。
さて、これを見送った地主は、それにしてもすさまじい坊さんだなと思い、
色々な人に話したところ、
やがて坊城の右の大殿こと、藤原師輔の耳にまで聞こえた。
師輔卿は、
「いくら何でもそんな奴はいるわけがない。
呼びつけて、試しに飯をたらふく食わせてみよう」
と思い、
「ご縁を結びたいからと、お呼びしてこい」
と命じて、聖を呼びつけた。
さてこのありがたいお坊さんがやって来た際、師輔卿の目には、
餓鬼、畜生、虎、狼、犬、烏、数万の鳥獣などが、
ぞろぞろと、聖の尻の後ろに続いているのが見えた。
ほかの者には見えないようだが、師輔卿にははっきりと見えたから、
「やあ、これはたいへんすばらしい聖者さまに違いない。ありがたいことだ」
と、白米を1万人分も用意させ、新しい茣蓙を敷き、
お膳、桶やお櫃でずらりと提供してやると、
聖はいっさい食べなかったが、
尻についていた連中がありがたがってみんな食べてしまった。
そうして喜んで帰って行く聖に、
「いや、すばらしい聖者さまだった。
仏様か何かが人間になって、世間を歩かれているのではないか」
と師輔卿は感心しきりだったが、
ほかの連中には、聖が一人で食べたとしか見えず、まことに不思議なことであった。
さて、辞去した聖は、四条大通の北側の小路で、大便を排泄された。
と同時に、
聖の尻に従っていた百鬼夜行も排泄したため、
小路一体が墨をぶちまけたように大便だらけになった。
それ以降、下々の者は鼻をつまんで、そこを糞の小路と呼ぶようになったが、
やがてこのことが、帝の上聞にまで達してしまった。
「そんな名前はひどすぎるぞ。四条大通の南側の小路は、何と申したかな?」
「綾の小路と呼んでおります」
「では、四条の北は、錦の小路と呼ぶようにせよ。あまりに汚らしいではないか」
そのような仰せの結果、
小路は錦小路と呼ばれるようになったのである。
原文
清徳聖、奇特の事
今は昔、清徳聖といふ聖のありけるが、母の死したりければ、棺にうち入れて、ただ一人愛宕の山に持て行きて、大きなる石を四つの隅に置きて、その上にこの棺をうち置きて、千手陀羅尼を片時休む時もなく、うち寝る事もせず、物も食はず、湯水も飲まで、声絶えもせず誦し奉りて、この棺をめぐる事三年になりぬ。
その年の春、夢ともなく現ともなく、ほのかに母の声にて、「この陀羅尼をかく夜昼よみ給へば、我は早く男子となりて天に生れにしかども、同じくは仏になりて告げ申さんとて、今までは告げ申さざりつるぞ。今は仏になりて告げ申すなり」といふと聞ゆる時、「さ思ひつる事なり。今は早うなり給ひぬらん」とて取り出でて、そこにて焼きて、骨取り集めて埋みて、上に石の卒都婆など立てて例のやうにして、京へ出づる道々、西の京に水葱(なぎ)いと多く生ひたる所あり。
この聖困じて物いと欲しかりければ、道すがら折りて食ふ程に、主の男出で来て見れば、いと貴げなる聖の、かくすずろに折り食へば、あさましと思ひて、「いかにかくは召すぞ」といふ。聖、「困じて苦しきままに食ふなり」という時に、「さらば参りぬべくは、今少しも召さまほしからん程召せ」といへば、三十筋ばかりむずむずと折り食ふ。この水葱(なぎ)は三町ばかりぞ植ゑたりけるに、かく食へば、いとあさましく、食はんやうも見まほしくて、「召しつべくは、いくらも召せ」といへば、「あな貴(たふと)」とて、うちゐざりうちゐざり、折りつつ、三町をさながら食ひつ。主の男、「あさましう物食ひつべき聖かな」と思ひて、「しばしゐさせ給へ。物して召させん」とて白米一石取り出でて飯にして食はせたれば、「年比物も食はで困じたるに」とて、みな食ひて出でて往ぬ。
この男いとあさましと思ひて、これを人に語りけるを聞きつつ、坊城の右の大殿に人の語り参らせければ、「いかでかさはあらん。心得ぬ事かな。呼びて物食はせてみん」と思して、「結縁のために物参らせてみん」とて、呼ばせ給ひければ、いみじげなる聖歩み参る。その尻に餓鬼、畜生、虎、狼、犬、烏、数万の鳥獣など、千万と歩み続きて来けるを、異人の目に大方え見ず、ただ聖一人とのみ見けるに、この大臣見つけ給ひて、「さればこそいみじき聖にこそありけれ。めでたし」と覚えて、白米十石をおものにして、新しき筵菰に折敷、桶、櫃などに入れて、いくいくと置きて食はせさせ給ひければ、尻に立ちたる者どもに食はすれば、集りて手をささげみな食ひつ。聖は露食はで、悦びて出でぬ。「さればこそただ人にはあらざりけり。仏などの変じて歩き給ふにや」と思しけり。異人の目にはただ聖一人して食ふとのみ見えければ、いとどあさましき事に思ひけり。
さて出でて行く程に、四条の北なる小路に穢土をまる。この尻に具したる者し散らしたれば、ただ墨のやうに黒き穢土を隙もなく遥々とし散らしたれば、下種などもきたながりて、その小路を糞の小路とつけたるを、帝聞かせ給ひて、「その四条の南をば何といふ」といはせ給ひければ、「綾の小路となん申す」と申しければ、「さらばこれをば錦の小路といへかし。あまりきたなきなり」など仰せられけるよりしてぞ錦の小路とはいひける。
適当訳者の呟き
三つの話が合体した感じですね。
水葱:
水葵。かつては水田などによく見られたらしいですが、最近は絶滅危惧種みたいです。一応、食用にもなるらしい。
ちなみに、徳川家の三つ葉葵の御紋は、この水葵を3つ並べたものなんだそうです。
藤原師輔(909~960年):
村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えました。平将門の乱の頃の人で、摂関政治・外戚政治の直前です。
錦小路:
今や京都観光の定番の錦市場です。糞の小路だとは、京都の台所もびっくりですネ。
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