昔、多武峰に、増賀上人という、貴い聖がいた。
まことに道心堅固の、きびしい人であり、
名利を嫌い抜いて、物狂いに徹したような振舞いをしていた。
さて、三条大后の宮が、尼になろうとした時のこと。
この増賀上人に、出家の戒師になってもらいたいと、お召しの使者が来ると、上人は、
「それは貴いこと。この増賀こそ最適です。うまくやって差し上げましょう」
と、参上することにした。
弟子たちにしてみれば、上人はむしろ、この使いに怒って、
打ち据えるのではないかとも想像していたが、
思いの外、気安く承知したので、ありがたいことだと、互いに思った。
そうして増賀上人が、宮のもとへ来た旨を伝えれば、
みな悦んで召し入れ、尼になるための儀式を行うことになった。
公卿連中や僧侶が大勢集り、さらに内裏から帝の御使者まで集るから、
上人は恐ろしげな目をして、仕草は貴いものであるにしても、
いくらか煩わしく思っているようにも見えた。
さて、いよいよ宮の御前へ出る。
御几帳のもとで出家の作法を行い、美しく長い御髪を掻き出し、鋏で切れば、
御簾の内側から見つめる女房たちは、大いに泣き出す始末。
そうして、はさみで切り終り、退出しようという時。
上人が、にわかに声高になって、
「増賀をわざわざ呼んだのは何事であったか、合点が行き申さず。
あるいは、わしの汚きものが巨根であるとお聞きになったゆえか。
なるほどわしのものは、人より大きくあるが、今は練絹のように、くたくたとなり果てておる」
などと言い出したものだから、御簾の内側の女房連中、
ほかの公卿、殿上人、僧侶連中はびっくりして目も口もおっぴろげになる。
宮も無論のことで、仏事の尊さ、ありがたさ全部消え失せて、
それぞれ全身汗をかいて、自己喪失の様子。
そうしておいて辞去しようという上人が、袖をかき合わせて言うには、
「わしは齢が重なり、風邪もひどい。今はただもう下痢気味にて、
本来はこの場へ参上すべきではないかもしれないが、そこを敢えて参った。
とはいえ、我慢ならんことになったゆえ、今は早く退散いたす」
と外へ出るなり、西側の対の屋のすのこへしゃがみ、尻をかかげたと思うと、
水差しから水を放出するようにして、糞をひり散らかしたのである。
音高く、ひり出される量も、半端ない。
音は帝の御前まで達し、若い殿上人連中、笑い騒ぐことたいへんなことで、
その場にいた僧侶たちはさすがに、
「こんな物狂いを召すとは」
と罵ったが、このような物狂いの振舞いをわざと続けていたにもかかわらず、
上人の尊さの評判はいよいよ高まったということである。
原文
増賀上人三条の宮に参り振舞の事
昔、多武嶺(たむのみね)に、増賀上人とて貴き聖おはしけり。きはめて心たけうきびしくおはしけり。ひとへに名利を厭ひて、頗る物狂はしくなん、わざと振舞ひ給ひけり。
三条大后(おほきさい)の宮、尼にならせ給はんとて、戒師のために、召しに遣はされければ、「もとも貴き事なり。増賀こそは実になし奉らめ」とて参りけり。弟子ども、この御使をいかつて、打ち給ひなどやせんずらんと思ふに、思の外に心やすく参り給へば、有り難き事に思ひ合へり。かくて宮に参りたる由申しければ、悦びて召し入れ給ひて、尼になり給ふに、上達部、僧ども多く参り集り、内裏より御使など参りたるに、この上人は、目は恐ろしげなるが、体も貴げながら、煩はしげになんおはしける。
さて御前に召し入れて、御几帳のもとに参りて、出家の作法して、めでたく長き御髪をかき出して、この上人にはさませらる。御簾の中に女房たち見て、泣く事限なし。はさみ果てて出でなんとする時、上人高声にいふやう、「増賀をしもあながちに召すは、何事ぞ。心得られ候はず。もしきたなき物を大なりと聞し召したるか。人のよりは大に候へども、今は練絹のやうに、くたくたとなりたるものを」といふに、御簾の内近く候女房たち、ほかには公卿、殿上人、僧たち、これを聞くにあさましく、目口はだかりて覚ゆ。宮の御心地も更なり。貴さもみな失せて、おのおの身より汗あえて、我にもあらぬ心地す。
さて、上人まかり出でなんとて、袖かき合せて、「年まかりよりて、風重くなりて、今はただ痢病のみ仕れば、参るまじく候ひつりを、わざと召し候ひつれば、あひ構へて候ひつる。堪へ難なくなりて候へば、急ぎまかり出で候なり」とて、出でざまに西の対の簀子についゐて、尻をかかげて、はんざふの口より水を出すやうにひり散す。音高くひる事限なし。御前まで聞ゆ。若き殿上人、笑ひののしる事おびただし。僧たちは、「かかる物狂を召したる事」とそしり申しけり。
かやうに事にふれて、物狂にわざと振舞ひけれど、それにつけても、貴き覚はいよいよまさりけり。
適当訳者の呟き
あんたがチャンピオンや……。
多武峰
とうのみね。奈良県にあります。今は談合神社のあるところです。
増賀上人
ぞうが。
豆大師・良源の弟子。師匠の良源は、村上天皇后の祈祷を成功させるなど、比叡山中興の祖として活躍しますが、増賀上人としては、そういう世俗的なことが不愉快だったのでしょう(良源は、おみくじの元祖ともいわれてます)。
乞食に袈裟を与えて、すっぽんぽんで比叡山をうろうろしていたとか、いろいろな伝説があるようです。
三条大后の宮
藤原詮子、藤原道長の姉。一条天皇の母親。
道長と、その甥・伊周の出世競争で、常に道長の肩を持ち、ついに道長を関白につけるなど、国母としての権力ものすごいものがありました。
……と聞くと、ざまを見ろって気がしてきます。
はんざふ:
はんぞう。
半挿。水差し。
よく分かりませんが、急須の親戚みたいなものです。ぴゅーっと、勢いよく水が出たのだと思われます。
[6回]
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