今は昔、主計頭に小槻當平(おづき・まさひら)という人がいて、
その子供に、算博士に任じられている者があった。
名を茂助という。
今の主計頭忠臣の父親で、淡路守大夫史・泰親の祖父に当る人である。
この茂助は、長く生きたなら、たいそう出世するに違いない男だったが、
どうしてこのようなことになってしまったのか。
茂助が出世すれば、主計頭、主税頭・助・大夫史などに、
他家の人間が付くことが出来なくなってしまう――そんなふうに妬む者がいたのである。
茂助は算博士であり、これは父祖からの職だし、
当人に才能があり、心映えも優れていたから、
六位でありながら、世上の評判も次第に高くなって行くのも当然だった。
それゆえであろう。
この茂助を、亡き者にしなければならぬと考える者がいると、
あるとき、家の者へ告げる者があった。
これを受け、茂助の方で、対応策を陰陽師に尋ねれば、
きわめて厳重に斎戒、身を慎む日が書き連ねられたものを渡されたので、
茂助はそれに従い、門を固く閉ざして、物忌みすることにした。
これに敵方は。
ひそかに陰陽師を招き、茂助が死ぬべき術をかけさせたところ、
呪いをかける陰陽師が言うには、
「物忌みの日というのは、すなわち身を慎まなければならない日であり、
つまりその日を狙って呪えば、大きな効果があるはずでございます。
しからば、わたくしを連れて、相手の家へお出でになり、茂助をお呼びください。
物忌みなので、門は開けないでしょう。しかし声さえ聞かれれば、必ずや呪詛の効果があります」
それで、その陰陽師を連れて、茂助の家へと出向くことになった。
そうして門を激しく叩けば、まず下人が門の内へ来て、
「誰だ。うちの門を叩くのは」
と言うので、
「わたくしが、急なことにて参上いたしました。
たいへん堅い物忌みとは存じますが、細く開けて、中へ入れて下さい。
大事なことです」
と言うので、下人はひとまず中へ戻って、
「このようなことですが」
と報告すると、
「何とも不埒なことだ。世間で、こんなに相手の身の上を思わぬ人があるものか。
決して入れてはならぬ。わしの方には用も無い。すみやかにお帰りいただけ」
と、下人を通じて言うと、
「では門は開けずとも、その戸口より顔をお出しくだされ。わたくしが直接申し上げます」
と言うので、これで茂助は死ぬべき運命にあったのだろう。
「何ごとだ」
と、遣戸から顔を差し出した茂助の声を聞き、顔を見た陰陽師は、
あらん限りの術で、茂助を呪詛したのである。
そうして、会いたいと言っていた男の方は、
たいへんな重大事だと言ってはみたものの、別に言うべきこともないので、
「実はこれから田舎へ参りますので、そのことを申し上げようと訪れたのです。
さあ、では、もうお入りなさい」
と言うので、
「大事なことでもなしに、このように人を呼び出すなど、ものも知らぬ御人だ」
と、茂助はまた入った。
それより後、いくらもしないうちに頭痛を覚え、
三日を過ぎただけで、茂助は死んだ。
そういうわけで、物忌みの折には、声高に、他人に会ってはいけないものである。
このような呪詛をする人は、こういう隙に付け入って術をしかけるのであり、
まことに恐ろしいことである。
だが茂助を呪詛させた人も、いくらもしないうちに災いに遭い、死んだらしい。
「罪を負ったのだ。あさましいことではないか」
そう人々は語り合ったという。
原文
小槻當平事
いまは昔、主計頭(かずへのかみ)小槻當平といふ人ありけり。その子に算博士(さんはかせ)なるものあり。名は茂助となんいひける。主計頭忠臣が父、淡路守大夫史(あはぢのかみ・たいふのし)奉親が祖父(おほぢ)也。生きたらば、やんごとなくなりぬべきものなれば、いかでなくもなりなん。是が出たちなば、主計頭(かみ)、主税頭、助、大夫史には、異(こと)人はきしろふべきやうもなかんめり。
なりつたはりたる職(さかり)なるうへに、才かしこく、心ばへもうるせかりければ、六位ながら、世のおぼえ、やうやうきこえ高くなりもてゆけば、なくてもありなんと思ふ人もあるのに、この人の家にさとしをしたりければ、その時陰陽師に物をとふに、いみじく重くつゝしむべき日どもを書きいでて、とらせたりければ、そのまゝに、門をつよくさして、物忌して居たるに、敵の人、かくれて、陰陽師に、死ぬべきわざどもをせさせければ、そのまじわざする陰陽師のいはく、「物忌してゐたるは、つゝしむべき日にこそあらめ。その日のろひあはせばぞ、しるしあるべき。されば、おのれを具して、その家におはして、よび出で給へ。門は物忌ならばよもあけじ。たゞ聲をだに聞きてば、かならずのろふしるしありなん」といひければ、陰陽師を具して、それが家にいきて、門をおびたゞしくたゝきければ、下種(げす)いきでて、「たそ。この門たゝくは」といひければ、「それがしが、とみのことにて参れるなり。いみじきかたき物忌なりとも、ほそめにあけて入れ給へ。大切のことなり」といはすれば、この下種男、歸入て、「かくなん」といへば、「いとわりことなり。世にある人の、身思はぬやはある。え入れ奉らじ。さらに不用なり。とく歸り給ね」といはすれば、又いふやう、「さらば、門をばあけ給はずども、その遣戸から顏をさし出給へ。みづからきこえん」といへば、死ぬべき宿世にやありけん。「何ごとども」とて、遣戸から顏をさしいでたりければ、陰陽師は、聲を聞き、顏をみて、すべきかぎりのろひつ。このあはんといふ人は、いみじき大事いはんといひつれども、いふべきこともおぼえねば、「たゞ今、田舎へまかれば、そのよし申さむと思ひて、まうで來つるなり。はや入り給ね」といへば、「大事にもあらざりけることにより、かく人を呼び出て、物もおぼえぬ主かな」といひて入りぬ。それよりやがて、かしらいたくなりて、三日といふに死にけり。
されば、物忌には、聲たかく、餘所の人にはあふまじきなり。かやうにまじわざする人のためには、それにつけて、かゝるわざをすれば、いとおそろしき事なり。さて、其のろひごとせさせし人も、いくほどなくて、殃(わざはひ)にあひて、しにけりとぞ。「身に負ひけるにや。あさましき事なり」となん人のかたりし。
適当役者の呟き
平安京の闇。犯人と茂助は、知り合いだったのでしょうかね。。
小槻當平:
おづき・まさひら。主人公はこの人の息子ですが、この當平さんが名高かったため、こういう題名になっているのでしょう。
阿保今雄(あぼ・いまお)という人の息子で、雄琴神社というところに、父親を「今雄宿禰命」として祭ったくらい有能且つ、算道を究めた人だったと思われます。
阿保今雄-小槻當平-主人公・茂助-主計頭・忠臣-淡路守大夫史・泰親
こういう親子5代になるようです。
時代的には、応天門の変から十数年後。藤原基経が、史上初の関白になったあたりの人です。
算博士:
大学寮で、算道を教える人なので、今でいう数学教授。
算道を勉強した下級官僚は、「算師」として、京都勤めをしたり、各地の役人として勤務しました。
平安中期以降は、算博士は、必ず主税寮か主計寮の頭か助を兼務していたとwikipediaにあります。
そういう算道を究めた小槻一族の祖・阿保今雄が、神様扱いされるほどなので、「算道」は、単なる読み書きそろばん以上に、相当な特殊技能だったのだと思われます。
ちなみに、
雄琴神社は、滋賀県大津市雄琴にありまして、学問の神様として知られているようです。とりわけ数学には強いはずです。
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