(最初から)
さて頼信が海を渡って行く一方。
館に籠もる平忠恒は、
「舟はすべて取り隠しておいたゆえ、相手は海を迂回して寄せて来るであろう。
海の浅い道があることも知っているのは自分だけだ。すぐに渡って来られるわけがない。
敵が浜を迂回して来る間に、作戦を実行するとか、ここを引き上げても良い。
とにかく連中は、迂回しなくては攻め寄せられるものではないのだ」
と、落ち着き払って、軍勢を揃えていたところ、
館の周りにいた家来が慌てて駆けてきて、
「上野守は、この海の中に浅道があったというので、多くの軍勢を率い、
まっすぐここへ向っています。いかがいたしましょうか」
と、わななき、ふためくので、忠恒も前々からの策に反したことを悟って、
「すでに攻められているということか。ならば、こうするほかあるまい」
と、即座に降伏の名簿(みょうぶ)をしたため、文ばさみに付けると、
小舟に郎党一人を乗せて、捧げ持たせて行った。
頼信はこれを見、名簿を受け取って言うには、
「このように名簿に詫び状を添えて差し出した。敵はすでに我が前に降伏したということだ。
これ以上は、わざわざ攻め立てるには及ばぬ」
と、忠恒からの手紙を取り、馬を引き返したので、兵士たちもみな帰還するのであった。
この後から、この頼信のことを、
「まことにすぐれた、たいへん立派な御人でいらっしゃるぞ」
と、いよいよ世上の評判は高くなった。
原文
河内守頼信平忠恒をせむる事(つづき)
忠恒は、海をまはりてぞ寄せ給はんずらん、舟はみなとりかくしたれば、浅道をば、わればかりこそ知りたれ。すぐにはえわたり給はじ。濱をまはり給はん間には、とかくもし、逃もしてん。さうなくは、え攻め給はじと思て、心しづかに軍そろへてゐたるに、家のめぐりなる郎等、あわて走りきていはく、「上野殿は、此うみの中に浅き道の候けるより、おほくの軍をひき具して、すでにこゝへ来給ひぬ。いかゞせさせ給はん」と、わなゝきごゑに、あわてていひければ、忠恒、かねてのしたくにたがひて、「われすでに攻められなんず。かやうにしたて奉らん」と云て、たちまちに名簿をかきて、文ばさみにはさみてさし上て、小舟に郎等一人のせて、もたせて、むかへて、参らせたりければ、守殿みて、かの名簿をうけとらせていはく、「かやうに、名簿に怠り文をそへていだす。すでに来たれるなり。されば、あながちに攻むべきにあらず」とて、この文をとりて、馬を引かへしければ、軍どもみなかへりけり。その後より、いとゞ守殿をば、「ことにすぐれて、いみじき人におはします」と、いよいよいはれ給けり。
適当訳者の呟き
あざやかですね。
ちなみにこの話は、今昔物語集25巻「源頼信朝臣責平忠恒語」の方が詳しくて、攻め寄せた時の詳細や、海の浅道を教えたのが「眞髪の高文」という者だった、などの情報が書き込まれています。
ついでに言うと、関白道長が若い頃、父親が摂政に任じられたくらいの年に、「真髪成村」という陸奥か常陸出身の力士が御前相撲をとってます。頼信は道長さんの腹心なので、詳しいことは分りませんが、力士の親戚とか、一族の人が頼信に従っていたのでしょう。
さらに余談で、戦国時代、佐竹家の家来として信長の野望なんかに出てくる「真壁」さんは、この「真髪」さんの子孫だという説があります。悠久の歴史ですね。
平忠恒:
ちなみにこの降伏については、頼信が来る前にも朝廷方と戦っていて疲弊していたし、忠恒と頼信は以前、主従だった関係で、あっさり降った――という説が有力みたいです。
史実的には、このあと忠恒は頭を丸めて京都へ連行。途中で病死したので首を刎ねて京都で晒されたそうです(でも出家・降伏したのに首をさらすのは余りにひどいというので、罪を許され、子孫も関東で繁盛します)。
名簿:
みょうぶ。名刺のようなものですが、もっと詳細に書かれていて、弟子入りの際、師匠に渡したり、主君に差し出したりします。
怠状:
おこたりじょう。たいじょう。謝罪の手紙。わび状。怠り文。
[2回]
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