昔、今の河内守、源頼信(よりのぶ)が上野守に任じられていた頃。
関東に、平忠恒という武士がいた。
忠恒は朝廷からの命ぜられたことを、無かったことにするような態度を見せていたため、
これを討伐しなくてはと、頼信が大軍勢を率い、彼の住む方へ出立。
すると忠恒は、岩礁の多い入江を挟んだ対岸に館を築いて、待ち構えていた。
入江を迂回すれば、館を攻めるまで七日、八日はかかると思われる。
だがこのまま渡海すれば、その日のうちにも攻めかかることができると見えた。
とはいえ忠恒の側で、渡す舟をすべて隠していたため、渡る方法がない。
波打ち際へ立ち尽くし、
この浜に沿って、迂回するしかないだろうと兵士たちが思っていると、大将の頼信は、
「入江に沿って迂回し、攻め寄せれば数日かかる。
その間に敵は逃げるやもしれぬし、また良からぬ備えをするやもしれぬ。
だが今日のうちに寄せて、攻めかかれば、
あやつはそんなことを予想もしておらぬし、あわてふためくに違いない。
とはいえ舟はみな引き隠されておる。いかがするべきか」
と、兵卒へ尋ねた。
だが、兵士たちは、
「どうにも渡る方法はありません。迂回して攻め寄せるしかござりません」
と言う。
「なるほど。だが我が兵士の中に道を知る者はおらぬか。
この頼信、関東を見るのは今回が初めてだが、我が家に伝わる話で、聞き置いたことがある。
すなわち、この海中には、堤のごとく、幅一丈ほどの、そのまま渡れる道があるとか。
そこでは水深も馬の腹に届く程度だと聞くが、ここら辺こそ、その海の道の場所ではないか。
この多くの兵士の中で、そのことを知る者はおらぬか。
おれば先に渡って示せ。頼信が続いて渡る」
と、馬の足を速めて波打ち際を走れば、知る者がいたのだろう。
四、五騎の武者が、海の道を渡って行った。
確かに、水は馬腹に達する程度である。
これだけ多くの兵士の中で、たった三人が、この道を知っていた。
その他の者は、
「まったく知らなかった。聞いたこともない。
ここに代々住んでいる者さえあるのに聞いたこともなく、知らなかった。
それなのに殿様は、この国へ来たのだって初めだというのに、
ああやってご存知だというのは、まったく、優れた武門の道にある御人ではないか」
と、みんなしてささやき合い、畏怖した。
(つづく)
原文
河内守頼信平忠恒をせむる事
昔、河内守頼信、上野守(かうづけのかみ)にてありしとき、坂東に平忠恒といふ兵(つはもの)ありき。仰らるゝ事、なきがごとくにする、うたんとて、おほくの軍(いくさ)おこして、かれがすみのかたへ行むかふに、岩海にはるかにさし入たるむかひに、家をつくりてゐたり。この岩海をまはるものならば、七八日にめぐるべし。すぐにわたらば、その日の中に攻つべければ、忠恒、わたりの舟どもを、みな取隠してけり。されば渡るべきやうもなし。
濱ばたに打たちて、この濱のまゝにめぐるべきにこそあれと、兵ども思ひたるに、上野守のいふやう、「この海のまゝに廻てよせば日比へなん。その間に逃もし、又よられぬ構へもせられなん。けふのうちによせて攻めんこそ、あのやつは存じのほかにして、あわてまどはんずれ。しかるに、舟どもは、みな取隠したる、いかゞはすべき」と、軍どもに問はれけるに、軍「更にわたし給べきやうなし。まはりてこそ、よせさせ給べく候」と申ければ、「この軍共の中に、さりとも、この道しりたる者は有らん。頼信は、坂東がたはこの度こそはじめて見れ。されども、我家のつたへにて、聞き置きたることあり。この海中には、堤のやうにて、ひろさ一丈ばかりして、すぐにわたりたる道あるなり。深さは馬の太腹にたつと聞く。この程にこそ、その道はあたりたるらめ。さりとも、このおほくの軍どもの中に、しりたるもあるらん。さらば、さきに立ちてわたせ。頼信つゞきてわたさん」とて、馬をかきはやめて寄りければ、しりたるものにやありけん、四五騎斗(ばかり)の軍どもわたしけり。まことに馬の太腹に立てわたる。
おほくの兵どもの中に、たゞ三人ばかりぞ、この道はしりたりける。のこりは、「つゆもしらざりけり。聞くことだにもなかりけり。然に、此守殿、此国をば、これこそ始にておはするに、我等は、これの重代のものどもにてあるに、聞だにもせず、しらぬに、かくしり給へるは、げに人にすぐれたる兵の道かな」と、みなさゝやき、怖ぢて、わたり行程に、
適当訳者の呟き
平安武士のかっこよさ。つづきます!
河内守/上野守頼信:
源頼信。河内源氏の祖とされていて、藤原道長の四天王とか呼ばれていました。
平忠恒:
たいらのただつね。普通は「平忠常」で、日本史に出てきます。
有名な反逆者・平将門の親戚。将門からすると「従弟の子供」にあたります。
(将門の祖父=高望王=忠恒の曾祖父)
租税の納入を怠ううちに、だんだんと増長。関東で暴れ回り、安房守・平惟忠を焼き殺したことで朝廷から追討命令。平直方という武将がまず討伐に向いますが手を焼き、頼信と交代。上のお話につながります。
ちなみに、将門方面の、坂東平氏はたいへん親戚間の仲が悪く、将門も、伯父の国香とか良正と争ったりしています。
守殿:
こうどの、こうのとの。
「こう」というのは「かみ」のことで、国守、左馬頭、右馬頭、衛門督、兵衛督などを敬っていう言葉です。
[4回]
PR