これも今は昔、
奈良の興福寺に蔵人得業(とくごう)の、惠印という僧侶がいた。
鼻が大きく赤かったので、
「大鼻の蔵人得業」
と呼ばれていたが、そのうちに長たらしいからと、
「鼻蔵人」
と言われるようになり、さらに後には、
「鼻蔵、はなくら」
とだけ言われていた。
さて、その鼻蔵が、若いとき。
猿沢池の端に、
『なん月なん日に、この池より龍が天へ登ろうとするものなり』
と記された札が立ったので、通りかかりの老若や、然るべき人々まで足を止めて、
「これは是非とも見なければ」
と、ささやき合った。
だがそれを見ながら、実はこの鼻蔵人、
「おかしな話だ。わしが書いたに過ぎぬことなのに、人々が騒ぎ合っておる。馬鹿な奴らめ」
と、心中でおかしく思っていた。
とはいえ、だまし続けてやろうと、そ知らぬ顔で過しているうち、
さて、その月になった。
すでに噂は広く大和、河内、和泉、摂津の者にまで伝わっていて、
大勢の人が、猿沢の池へ集り始めたので、
惠印は、
「しかし、どうしてここまで集るのだろう。
これは、何かが本当に起こるのではないか。不可思議なことだ」
と思いつつ、さらに何食わぬ顔で日を過して、
当日を迎えれば、人々が道も通れぬほど集まり、ひしめくありさま。
やがて時刻となれば、惠印は、
「もはやこれはただごとではない。
自分のしたことだが、よくよくのことがあるに違いない」
と思い込み、
「実に、本当に起こるかもしれない。行って、確かめねば」
と、頭を布で包んで出かけてみれば、
池の周りは、もう近づくこともできないほどになっている。
それで興福寺南大門の壇の上へのぼり、そこから池を見下ろして、
今にも龍が登るか、登るかと待っていたが――何で、登るわけがない。
日も暮れた。
暗くなり、結局、起こるべきことではないからすごすごと帰る途中、
盲人が一人、橋の一つを渡りかけていた。
惠印が、
「あな、危ないめくらだ」
と言えば、盲人はすばやく、
「違う、鼻くらだ」
と言い返した。
鼻先が見えないだけだというのだ。
この盲人、惠印が「鼻蔵」と呼ばれていることを知らなかったはずだが、
めくらと呼ばれたことで即座に、
「違う、鼻くらだ」
と、当の鼻蔵法師へ言ったということは、
また一つのおかしなことではあるまいか。
原文
蔵人得業猿沢の池の龍の事
これも今は昔、奈良に蔵人得業恵印(ゑいん)といふ僧ありけり。鼻大きにて、赤かりければ、「大鼻の蔵人得業」といひけるを、後ざまには、ことながしとて、「鼻蔵人」とぞいひける。なほ後々には、「鼻蔵(はなくら)鼻蔵」とのみいひけり。
それが若かりける時に、猿沢の池の端(はた)に、「その月のその日、この池より龍登らんずるなり」といふ札を立てけるを、往来(ゆきき)の者、若き老いたる、さるべき人々、「ゆかしき事かな」と、ささめき合ひたり。この鼻蔵人、「をかしき事かな。我がしたる事を、人々騒ぎ合ひたり。をこの事かな」と、心中におかしく思へども、すかしふせんとて、空知らずして過ぎ行く程に、その月になりぬ。大方大和、河内、和泉、摂津国の者まで聞き伝へて、集ひ合ひたり。恵印、「いかにかくは集る。何かあらんやうのあるにこそ。怪しき事かな」と思へども、さりげなくて過ぎ行く程に、すでにその日になりぬれば、道もさり敢へず、ひしめき集る。
その時になりて、この恵印思ふやう、ただごとにもあらじ。我がしたる事なれども、やうのあるにこそと思ひければ、「この事さもあらんずらん。行きて見ん」と思ひて頭(かしら)つつみて行く。大方近う寄りつくべきにもあらず。興福寺南大門の壇の上に登り立ちて、今や龍の登るか登るかと待ちたれども、何の登らんぞ。日も入りぬ。
暗々(くらぐら)になりて、さりとては、かくてあるべきならねば、帰りける道に、一つ橋に、盲(めくら)が渡り合ひたりけるを、この恵印、「あな、あぶなのめくらや」といひたりけるを、盲とりもあへず、「あらじ。鼻くらなり」いひたりける。この恵印を、鼻蔵といふも知らざりけれども、めくらといふにつきて、「あらじ。鼻蔵なり」といひたるが、鼻蔵に言ひ合せたるが、をかしき事の一つなりとか。
適当訳者の呟き
芥川龍之介「龍」の原話ということで、教科書の定番みたいです。
でも「めくらめくら」と放送禁止用語が出てくることもあって、教科書では、最後が削除されるようです。ひどい学校教育ですね。
個人的には、イベントを見ようと、数日前から池の周りに人が集っていることが興味深かったです。場所取りというか、暇人というか。
得業:
とくごう。ある程度の修行を積んだ僧侶のことです。
そして「蔵人」は、天皇家の秘書官的存在のこと、と出るのですが、この惠印という「蔵人得業」がどういう身分なのか、微妙にわかりません。
「本当に天皇家の秘書官をしている得業」か、「昔蔵人だった得業」あるいは、「興福寺の蔵(役所)勤めの得業」か、そのどれかだと思います。個人的には、3つ目っぽい気がしますが分りません。
猿沢の池:
興福寺の南にある、今でも撮影スポット的な池。南都八景のひとつ。生き物を逃がしてやる放生池として、天平年間(749)に造られた人口の池だそうです。
ちなみに:
この宇治拾遺では、「龍なんて現れるわけがない」としていますが、芥川「龍」では最後、見事に龍が現れます。さらに言うと、室町時代・世阿弥のつくった「春日龍神」という謡曲(能)でも、龍が出現します。
……とある僧侶が、修行のため天竺へ渡ろうとしたところ、
「奈良の春日山(興福寺の管理地)が霊山なので、わざわざ旅に出なくても良いよ」
とお告げがあり、さらに八大竜王が幾百の眷族を連れて釈迦の一代記を見せるので、
坊さんは、
「じゃあ、もういいや」
と旅行をとりやめる、そして竜神たちは猿沢の池へ飛び入って消え失せる――という筋です。
鼻くら:
微妙に意味不明ですが、「めくら」と呼ばれて、こう返しているあたり、「違う、自分の鼻が見えないだけだ!」という意味だと思いました。この返事からすると、この時代でも「めくら」と呼ばれるのは不快だったのかと思われます。
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