これも今は昔。
奈良の都の永超(えいちょう)僧都は、
魚が無ければ、午前も午後も、いっさい食事をされないような人だった。
さてこの永超僧都。
ある時、朝廷の法会のためしばらく京都へ滞在していたが、
その間、魚を食べることができなかった。
そうして、ヘロヘロになって奈良へ戻る途中、
奈島の丈六堂で弁当を食べようとした際に、
弟子の一人が、近在の家から魚を分けて貰い、僧都へお勧めしたという。
さてその後、魚を献じた家の者が、こんな夢を見た。
恐ろしげな連中が、近所の家々に印を付けて回っている、その一方で、
自分の家だけは、印を除外している。
どういうわけだと、使いの者へ聞いてみると、
「ここは永超僧都へ魚を献上した家だからな。それゆえに印を除外したのだ」
という。
さてその年、村の家々がことごとく疫病を患って、多数の死者が出た。
しかしながら、魚を献じた家一軒だけが、それを免れた。
それで家の者が、永超僧都へこのことを伝えると、
僧都は、単衣着物を贈物として渡し、帰されたという。
原文
永超僧都魚食ふ事
これも今は昔、南京の永超僧都は、魚なき限は、時(とき)、非時(ひじ)もすべて食はざりける人なり。公請(くじやう)勤めて、在京の間久しくなりて、魚を食はで、くづほれて下る間、奈島の丈六堂の辺にて、昼破子(ひるわりご)食ふに、弟子一人近辺の在家にて、魚を乞ひて、勧めたりけり。件の魚の主、後に夢に見るやう、恐ろしげなる者ども、その辺の在家をしるしけるに、我が家しるし除きければ、尋ねぬる所に、使の曰く、「永超僧都に魚を奉る所なり。さてしるし除く」といふ。その年、この村の在家、ことごとく疫をして、死ぬる者多かりけり。その魚の主が家、ただ一宇、その事を免るによりて、僧都のもとへ参り向ひて、この由を申す。僧都この由を聞きて、被物一重(かづけものひとかさね)賜びてぞ帰されける。
適当訳者の呟き
こう言っちゃ何ですけど、生臭坊主ですよね。
南京:
みなみのきょう。京都は北なので、奈良。
永超僧都:
えいちょうそうず。出羽守・橘俊孝の子、1014-1095、法隆寺別当、後に大僧都となる――と出ました。
ちなみに検索したら、永超僧都の父・橘俊孝は出雲守で、「出雲大社が壊れたから修理のため4年間免税しておきます」と中央へ報告したものの、実は嘘で(中央へ免税したと報告した分は自分の懐へ入れたのでしょう)、佐渡へ配流、でも途中で病気になって敦賀に滞留する(1032)――と出ます。
そういう罪人の息子なので、出家も頷けますけど、どこか生臭いのは仕方がないのかもしれません。
検索って便利です。
公請:
くじょう。朝廷主催の法会。
昼破子:
ひるわりご。弁当。破子(わりご)というのは、弁当箱のことみたいです。
魚を食う:
僧侶は、昔から殺生厳禁、魚肉は食べないのが建前なんですが、少なくとも、「袈裟を脱いだら食っても良い」とかいう言い訳があった模様です(親鸞聖人の逸話に、そんな話が載ってます)。
ちなみに、元祖のお釈迦様は「もらったものはありがたく頂戴する」と仰って、肉などが喜捨された際は、普通に召し上がってたそうです(自ら殺して食ったりはしません)。仏教で菜食主義が流行したのは、中国(道教)の影響らしいです。
奈島の丈六堂
京都の奈島というところに、丈六の仏像を安置したお堂があった模様です。
[9回]
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