これも今は昔、
慈恵僧正は近江の国・浅井郡の人であった。
さて、比叡山に戒壇を築く許しが下りたものの、
人足を揃えることが出来ず、未だ、戒壇を築くことができなかった折のこと。
浅井郡の郡司と、慈恵僧正とは、師匠・檀家の間柄で親しくしていたため、
ある仏事に、慈恵僧正が招かれた。
そして僧膳に提供するため、郡司が大豆を目の前で炒り始めたが、
そこに酢をかけるので、
「何のために酢などをかけるのか」
と問うと、郡司は、
「大豆の暖かな時に酢をかければ、苦みのために皺が出来て箸で挟みやすくなります。
こうしなければ、滑って挟むことができませんよ」
と言う。
けれど僧正は、
「何でそれしきの豆が箸で挟めぬことがあろうか。
わしは、投げつけられた大豆であっても、挟んで食べられるぞ」
と言い張るので、
「どうして、どうして。そんなことは出来ませんよ」
と言い争いになった。
そこで僧正は、
「ではわしが勝てば、他のことではない、戒壇を築いてくれるか」
と言うと、
「おやすい御用です。では――」
と、郡司が炒った大豆を僧正へ投げつけると、
僧正は一間ほどさがったところに座ったまま、
一粒も落とさず箸に挟んでのけたものだから、見る者で驚かぬ者もない。
郡司が、こっそりと柚子の種を取り出し、まぜこぜに投げやっても、
滑りやすいはずなのに、僧正は落しもせず、箸に挟んで留める。
僧正の勝ちであった。
というわけで、郡司は富裕な一族であったから、
人数を揃え、日を置かず、比叡山へ戒壇を建てたのだという。
原文
慈恵僧正戒壇築かれたる事
これも今は昔、慈恵僧正は近江の国淺井群の人なり。叡山の戒壇を人夫かなはざりければ、え築かざりける比、淺井郡司は親しき上に、師壇にて佛事を修する間、此の僧正を請じ奉りて、僧膳の料に、前にて大豆を炒りて、酢をかけけるを、「何しに酢をばかくるぞ。」と問はれけれぼ、郡司曰く、「暖なる時、酢をかけつれば、すむつかりとて、苦みにてよく挟まるるなり。然らざれば、滑りて挟まれむなり。」という。僧正の曰く、「いかなりとも、なじかは挟まぬやうやあるべき。投げやるとも、はさみ食ひてん。」とありければ、「いかでさる事あるべき。」と爭ひけり。僧正「勝ち申しなば、異事はあるべからず。戒壇を築きて給へ。」とありけれぼ、「易き事。」とて、煎大豆を投げやるに、一間計のきて居給ひて、一度も落さず挟まれけり。見る者あざまずといふ事なし。柚の実の只今搾り出したるを交ぜて、投げて遣りたるおぞ、挟みてすべらかし給ひけれど、おとしもたてず、又やがて挟みとどめ給ひける。郡司一家廣き者なれば、人數をおこして、不日に戒壇を築きてけりとぞ。
適当役者の呟き
何だか馬鹿馬鹿しいですけど、おもしろくて素敵。
そしてこれで第四巻がおしまいですよ!
慈恵僧正:
912-985。慈恵大師(じえだいし)、元三大師。第十八代天台座主の良源。延暦寺の堂塔の再建に尽くして、中興の祖と言われる。近江国浅井郡出身。
「角大師」「豆大師」「厄除け大師」など、今でもたいへんに信仰されています(この話は、「豆大師」の名前から出たのかもしれませんね)。
戒壇:
かいだん。戒律を授ける儀式を行うために設けた特定の壇――当初は、東大寺、大宰府の観世音寺、下野の薬師寺にだけ設置されていまして、ここで受戒の儀式を行わないと、正式な「僧侶」として認められませんでした。
その天下の「三戒壇」に比叡山延暦寺が加わった、まさにその時のお話ですね。
すむつがり:
酢憤り、すむずかり。
辞書には、粗くおろした大根と人参に、いり大豆・塩鮭の頭・酒かすなどをまぜて煮たもの。古くは、いった大豆に酢をかけたものをいった――と、酢の物みたいな感じで書いてありますが、漢字から見ると、大豆の皮がしわしわになるので「むずかる」だと思ったり。
「酢大豆」はヘルシー料理として検索にひっかかりますが、炒った大豆&酢は、あんまりおいしくないのかも。
[4回]
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