(つづき)
その後、この男の子は無事に、法華経全巻を読み終えた。
海雲比丘は、
「おまえは法華経を読み通した。今より正式な法師となり、受戒を授かるのだ」
といって、男の子は法師となった。
「だがわしには受戒を授けることができない。
洛陽の禅定寺にいらっしゃる、りん法師という人が、
このごろ、朝廷の宣旨を受けて、受戒のことを行っている。
その人のもとへ行き、授かるのだ。
わしは、これ以上おまえを見ることができぬ事情がある」
と言って、比丘が大いに泣き出したため、新たな法師は、
「受戒を授かれば、すぐに帰りますのに、何と思し召して、そのように仰せになるのですか」
と言い、
「それにどうして、そのようにお泣きになるのですか」
と尋ねたが、
「ただ悲しい事情があるのだ」
と、泣くばかりであった。
そうして、海雲比丘は新たな法師に、
「戒師のもとへ参り、どこから来た人かと訊かれたら、
『清涼山の海雲比丘のもとから』と答えるのだよ」
と教えて、あとは涙涙で見送るのだった。
ともかく、新たな法師は師匠の言葉に従って、りん法師のもとへ行き、
受戒する旨を伝えると、予想したとおりに、
「どこから来た人か」
と問われたので、教わったとおりに答えれば、りん法師は驚いて、
「貴きことである」
と、新たな法師を礼拝して言うには、
「五台山は、文殊だけが住まわれる場所です。
あなたは、海雲比丘というすばらしい善知識に逢い、
文殊を拝みながら過していたのです」
と、限りなくありがたがるのだった。
こうして受戒を済ませた法師は五台山へ帰り、長年お仕えしていた師匠の居所を尋ねたが、
そこはまったく、人が住んだ名残さえ無かったのである。
泣く泣く、山のすべてを尋ね歩いたが、ついに居所はわからなかった。
前の優婆崛多の弟子の僧侶が、賢い人ではあったが心は弱く、女に近づいた。
だがこの若い僧侶は、幼いながらも心強く、女人に近づかなかった。
そのため文殊は、かれを賢い者だと思い、教化して仏道に入らせたのである。
だから世間の者も、戒を破ってはならないのである。
原文
海雲比丘の弟子童の事(つづき)
さる程に、童は法華經を一部よみ終にけり。其時、比丘のたまはく、「なんぢ法華經をよみはてぬ。今は法師となりて受戒すべし」とて、法師になされぬ。「受戒をば我はさづくべからず。東京(とうけい)に禅定寺にいまする、りん法師と申人、この比おほやけの宣旨を蒙て、受戒を行給人なり。其人のもとへ行て受くべきなり。たゞいまは汝を見るまじきことのあるなり」とて、泣給こと限りなし。童の申、「受戒仕ては、則歸参り候べし。いかにおぼしめして、かくは仰候ぞ」と。又「いかなれば、かく泣かせ給ぞ」と申せば、「たゞかなしきことの有なり」とて泣き給。さて童に、「戒師の許に行たらんに、「いづかたよりきたる人ぞ」と問はば、「清涼山の海雲比丘のもとより」と申べきなり」と教へ給て、なくなく見送り給ぬ。
童、おほせにしたがひて、りん法師のもとにゆきて、受戒すべきよし申ければ、案のごとく、「いづかたより來る人ぞ」と問給ければ、教へ給つるやう申ければ、りん法師驚て、「貴き事なり」とて、禮拜して云、「五臺山には文殊のかぎり住給所なり。なんぢ沙彌は、海雲比丘の善知識にあひて、文殊をよくおがみ奉りけるにこそありけれ」とて、貴ぶ事限なし。さて受戒して、五臺山へ歸て、日ごろゐたりつる坊の在所を見れば、すべて人の住たるけしきなし。泣々ひと山を尋ありけども、つひに在所なし。
これは優婆崛多の弟子の僧、かしこけれども、心よはく、女に近づきけり。これはいとけなけれども、心つよくて、女人に近づかず。かるが故に、文殊、これを、かしこき者なれば、教化して佛道に入しめ給なり。されば世の人、戒をばやぶるべからず。
適当訳者の呟き:
海雲比丘=文殊菩薩、だと考えると解釈しやすいですが、それだと、前半で、子供の姿をした文殊菩薩が、比丘と世間話をしに来るのがよく分らなくなります(文殊様なら分身術が使えそうですが……)。あと、文殊菩薩が自ら教育した法師の名前が無いというのも、不思議です。
個人的な解釈では、弟子の男の子へ愛情を注ぎすぎた海雲比丘は、ほとんど愛欲に負けそうになるギリギリのところで辛うじて法師にできたので、アア良かった、わしの任務は何とか果たせたとばかりに、山奥へ逃げ込んだのかと思いましたが、まったく違うかもしれません。
(あるいは、途中で弟子に惚れ込んだ文殊様が海雲比丘をぶっ殺し、入れ替ったとか。。。女を見殺しにするような文殊様ですし)
禅定寺:
隋の時代に建てられました。東禅定寺、西禅定寺があったみたいです。
唐の時代には名前を変えて大荘厳寺、大總持寺。その後、
慈覚大師が遭遇した、会昌の廃仏大乱の際も破却を免れた伝統と格式を持つ大寺ですが、今でもあるのかは知りません。
りん法師:
倫法師、と出ますが、それ以上のことは分りません。
[2回]
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