今は昔、
海雲比丘が道を歩いていると、十歳くらいの男の子に行き会った。
「どういう子供だね」
比丘が尋ねると、男の子が答えていうには、
「ただ道を行く者です」
という。
比丘が、
「おまえは法華経を読むか」
というと、
「法華経というものは、未だ名前も聞いたことがありません」
と答える。
比丘が、
「それではわしの宿坊へ一緒に参れ。法華経を教えよう」
というと、
「仰るとおりにいたします」
と言って、比丘とともに五台山の坊舎へやって来て、法華経を習うことになった。
さて、この男の子が経文を習ううち、小坊主が来て、かれこれお話をして行く。
誰だかは分らない。
比丘が、
「毎度ここへやって来る小さな大徳を、おまえは知っているかね」
と尋ねると、男の子は、
「知りません」
と言う。
比丘は、
「あれこそ、この山に住まわれる文殊菩薩だ。
わしに何かお話をするために、お越しになるのだよ」
そのように教えたが、男の子の方は、文殊というものを知らないので、
何とも思うことはなかった。
比丘はまた、男の子へ、
「おまえは、決して女人に近づいてはならぬ。
周りの人を遠ざけて、女人に馴れ親しんではならぬよ」
と言い聞かせた。
さて、またあるとき。
この男の子がお遣いに行く途中、
葦毛の馬に乗った、化粧をして実に美しい女に行き会った。
この女が言うには、
「おまえ、この馬の口を取って、引いてくれ。
道がたいへんに悪くて、落ちそうになるから」
だが、男の子は耳にも聞き入れずに行き過ぎたところ、
馬が荒立って、女は逆さまに落ちてしまった。
女は男の子へ恨みを向けながら、
「わたしを助けて。もう死ぬかもしれない」
と言ったが、男の子は決して耳に入れなかった。
師匠が、女人を傍らに寄せてはならないと言ったことを思い続け、
五台山へ帰ると、師匠へ女との様子を語って、
「けれども私は耳にも入れず、帰ってきました」
と告げれば、
「よく出来た。その女は文殊が化けて、おまえの心を見ようとしたのだろう」
と、褒めた。
(つづく)
原文
海雲比丘の弟子童の事
今は昔、海雲比丘、道を行給に、十餘歳斗なる童子、みちにあひぬ。比丘、童に問て云、「何の料の童ぞ」とのたまふ。童答云、「たゞ道まかる者にて候」といふ。比丘云、「なんぢは法華經はよみたりや」ととへば、童云、「法華經と申らん物こそ、いまだ名をだにも聞き候はね」と申。比丘又いふ、「さらば我房に具して行て、法華經教へん」とのたまへば、童「仰にしたがふべし」と申て、比丘の御供に行。五臺山の坊に行きつきて、法華經を教へ給。
經を習ほどに、小僧常に來て物語を申。たれ人としらず。比丘ののたまふ、「つねに來る小大徳をば、童はしりたりや」と。童「しらず」と申。比丘の云、是こそ此山に住給文殊よ。我に物語しに來給也」と。かうやうに教へ給へども、童は文殊と云事もしらず候なり。されば、何とも思奉らず。比丘、童にのたまふ、「汝、ゆめゆめ女人に近づくことなかれ。あたりを拂て、なるなることなかれ」と。童、物へ行ほどに、葦毛なる馬に乗たる女人の、いみじく假粧してうつくしきが、道にあひぬ。この女の云、「われ、この馬のくち引きてたべ。道のゆゝしくあしくて、落ちぬべくおぼゆるに」といひけれども、童、みゝにも聞きいれずして行に、この馬あらだちて、女さかさまに落ちぬ。恨て云、「われを助よ。すでに死べくおぼゆるなり」といひけれども、猶みゝに聞入ず。我師の、女人のかたはらへよることなかれとのたまひしにと思て、五臺山へかへりて、女のありつるやうを比丘にかたり申て、「されども、みゝにも聞きいれずして歸ぬ」と申ければ、「いみじくしたり。その女は、文殊の化して、なんぢが心を見給にこそあるなれ」とて、ほめ給ける。
適当訳者の呟き:
前の話の続きになるのでしょうか。女は見殺しにするのが正しい、というわけですね。。。
そんな菩薩はいやです。
つづきますー。
海雲比丘:
かいうんびく。唐の時代に、文殊菩薩の家、五台山に住んでいたみたいですが、よく分りません。
ちなみに、この海雲さんのオリジナルだと思われる海雲比丘は、3世紀頃成立した華厳経の「入法界品」に登場します。海をひたすら見つめること12年で悟りを得ました。(大海の無量無辺のところで思案していたみたいです)
善財童子という、金持ちの男の子が出家を決意、文殊菩薩に導かれ、旅を続けながら53人の達人に出会い、知識を深めて最終的に悟りへ至る……という物語の、おそらく後半に出てきます。
ついでながら、この「53箇所を巡って、悟りに至る」というのが、「東海道五十三次」の言われになったと書いているサイトもありました。案外、そうかもしれません。
五台山:
ごだいさん。中国仏教、文殊菩薩の聖地で世界遺産。五つの峰があるから五台山みたいです。
[2回]
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