(最初から)
この僧侶へ聞いて、
「おまえは京都の者か。どこへ行くところだ」
と問えば、
「田舎の者にござります。法師になったものの、長く正式な戒律を受けませんので、
どうにか京都へのぼって受戒しようと、向かうところでした」
と言う。
「あんたの頭に憑いていた稚児どもは誰だ。何者だ」
「はて、いつそのような者がいましたか。記憶いたしませぬが」
そう答えるので、
「では、経文を掲げていたおまえの腕に憑いていた童子は。
そもそもおまえは何を思って、もはや死ぬという時に、その経袋を高く掲げていたのか」
と尋ねれば、
「死はすでに覚悟のことですので、命など惜しくはありません。
それゆえ、私が死のうとも経文だけは、少しの間でも濡らさないようにと、
掲げていたのですが、腕は疲弊することなく、不思議と軽く、
むしろ腕が長くなるような気がいたしまして、それで高く掲げることができました。
もう死ぬと思う時でしたが、これ御経文の功徳かと、そのようなことを覚えました。
その上こうして命の長らえましたことは、まことに喜ばしきことです」
そう言って泣くので、わしの、婆羅門のような邪教徒の心にも、あわれに尊く響くものがあった。
「これから国へ帰られるか。あるいは京へのぼり、受戒を遂げようとの志があれば、送ってやるが」
と言うと、
「ここで帰ろうと思います。それにしても、美しいという童子は、どうして見えたのか」
そう語りながら、この僧侶はいっそうあわれに尊く感じたか、
ほろほろと泣きだした。
「七つより法華経を読み続け、日頃も余念なく、何か恐ろしい時にも読み奉れば、
十羅刹がおでましになったのに違いありませぬ」
そのような言葉に、邪教徒のごときわしの心に、
仏教とはそれほどめでたく、尊いものかとの思いが兆し、
この僧へお供して、山寺へ出家しようという決心がついたのだった。
そしてこの僧侶と二人連れになり、食糧などすこしを持っただけで、他の物はいっさい知らず、
みな残った連中へ預けてやれば、連中は、
「気でも違ったか、どうしたことだ。にわか発心は世にあるものではないぞ。物の怪が憑いたか」
と制止しようとするが、わしは聞かず、弓に箙(えびら)、太刀、刀などもみな捨てて、
この僧につき、師の山寺へ行って法師になった。
そこで経文一部を読み、修行を始めたのだ。
わしは罪ばかりを作ってきたことを、あわれに恥ずかしく思うが、
若い僧が手をすり合わせ、はらはら泣くのを海へ沈めようとしたことで、
少しの道心が起きたのだ。
この僧侶に十羅刹が付き添っていらっしゃると思うにつけ、
法華経はまことにありがたく読み奉らねばならぬものだと思われて、
にわかにこの姿になったのだ――。
老僧は、そのように語ったことであった。
原文
海賊發心出家の事(つづき)
この僧に問ふ。「我は京の人か。いづこへおはするぞ」と問へば、「田舎の人に候。法師になりて、久しく受戒をえ仕らねば、 「いかで京にのぼりて、受戒せんと候しかば、まかりのぼるつるなり」といふ。「わ僧の頭やかひなに取つきたりつる 兒共(ちごども)は、たそ。なにぞ」と問へば、「いつかさるもの候つる。さらにおぼえず」といへば、「さて經さゝげたりつるかひなにも、童そひたりつるは。そもそも、なにと思ひて、たゞ今死なんとするに、この經袋(きやうぶくろ)をばさゝげつるぞ」と問へば、 「死なんずるは、思ひまうけたれば、命は惜しくもあらず。我は死ぬとも、經を、しばしがほども、ぬらし奉らじと思ひて、さゝげ奉りしに、かひな、たゆくもあらず、あやまりてかろくて、かひなも長くなるやうにて、たかくさゝげられ候ひつれば、御經のしるしとこそ、死ぬべき心ちにもおぼえ候つれ。命生けさせ給はんは、うれしき事」とて泣に、此婆羅門の様なる心にも、あはれに尊くおぼえて、「これより國へ帰らんとや思ふ。また、京にのぼりて、受戒とげんとの 心あらば、送らん」といへば、「これより返しやりてんとす。さてもうつくしかりつる童部は、なににか、かくみえつる」とかたれば、この僧、 哀に尊くおぼえて、ほろほろ泣かる。「七つより、法華經よみ奉りて、日ごろも異事なく、物のあそろしきまゝにも、よみ奉りた れば、十羅刹のおはしましけるにこそ」といふに、この婆羅門のやうなるものの心に、さは、仏經は、めでたく尊くおはします物な りけりと思て、この僧に具して、山寺などへいなんと思心つきぬ。
さて、この僧と二人具して、糖(かて)すこしを具して、のこりの物どもは知らず、みな此人々にあづけてゆけば、人々、「物にくるふか。こはいかに。俄の道心世にあらじ。物のつきたるか」とて、制しとゞむれども、きかで、弓、箙(ゑびら)、太刀、刀もみな捨て、この僧に具して、これが師の山寺なる所にいきて、法師になりて、そこにて、經一部よみ參らせて、行ひありくなり。かゝる罪をのみつくりしが、無慙(むざう)におぼえて、この男の手をすりて、はらはらと泣きまどひしを、海に入しより、少道心おこりにき。それに、いとゞ、この僧に十羅刹の添ひておはしましけると思に、法華經の、めでたく、よみ奉らまほしくおぼえて、俄にかくなりてある なりと、かたり侍りけり。
適当訳者の呟き:
正直、投げ込まれた人は投げ込まれ損ですね。
これで第十巻おわり!
婆羅門:
ばらもん。検索すると、「インド社会の指導的地位の僧侶」とか出ますが、この場合、ニュアンス的にも「邪教徒」です。
十羅刹:
法華経陀羅尼品に登場する10柱の女性の鬼神、と出ます。
名前が凶悪。
藍婆(らんば): 衆生を束縛し殺害する。
毘藍婆(びらんば): 衆生の和合を離脱せしめんとする。
曲歯(こくし): 歯牙が上下に曲がり甚だ畏怖すべきゆえに名づく。
華歯(けし): 歯牙が上下に鮮明に並んでいる。
黒歯(こくし): 歯牙が黒く畏怖すべき。
多髪(たはつ): 髪の毛が多い。
無厭足(むえんぞく): 衆生を殺害しても厭わない、飽き足らない。
持瓔珞(じようらく): 手に瓔珞(インド的な装身具)を持つため名づく。
皇諦(こうだい): 天上と人間の世界を自在に往来する。
奪一切衆生精気: 一切の衆生の精気を奪う。
……助けるより、坊主を引きずり込みそうな連中ですが、釈迦から法華経の話を聞いて成仏できることを知り、法華経はありがたい、これを所持し、また伝える者を守護しますよと誓ったそうです。よかったですね。
[4回]
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