【ひとつ戻る】
そのうちに、都へ乳母が訪れるようになった。
越前守の家の者たちは、この乳母をうとましく思ったが、今更どうしようもないと、
やがて乳母の訪問をを許すことになった。
そして「伯の母」つまり大姫御前の妹が、この乳母に歌を託した。
匂ひきや 都の花は東路に こちのかへしの風のつけしは
――都の花は東路に匂いますか。ひがし風のお返しに、風に乗せてみました。
その返歌として、大姫御前からは、
吹き返すこちのかへしは身にしみき 都の花のしるべと思ふに
――吹き戻ってきた風は身にしみます。都の花が匂うあかしと思われて。
やがて歳月も隔たり、伯の母つまり妹が常陸国司の妻となり、常陸の国までくだってきた時、
すでに姉は亡くなっていたが、
ふたりの娘が、叔母さんが来ると聞いてやって来た。
二人は、決して田舎者とも見えず、とてもしとやかで、控えめで、美しかった。
そして亡き母の面影を叔母の顔に見つけて、
「よく似てらっしゃいます」
と、泣いてしまった。
とはいえその後は、国司の任期四年の間、二人の姫君は叔母夫婦に媚びることなく、
頼み事などに来ることもなかった。
そうして、常陸守が任期を終えて、さあ上京しようというとき、
「しかし、あれきり来ないとは、つれない姫たちだったな。
もうこれでお別れだからと、伝えて来い」
と、伯の母を通じて伝えると、
「かしこまりました。ご挨拶にうかがいます」
と、明後日に出立するという日になって、ようやく二人がやってきた。
その時、はなむけとして献上されたのは、
一頭だけでも宝物になるような、びっくりするほどの駿馬が十頭ずつ。
さらに皮カゴを背負わせた馬を百頭ずつ、ぞろぞろと牽いてやって来たものだから、
常陸守は、
「わしの四年間の俸禄さえ、これに較べては物の数にはならない。
この贈り物こそが、わしの任期中の何よりの宝となるだろう。
いや、田舎者どもの太っ腹なことだ」
と、人に語ったという。
「伯の母」をはじめ、越前守と伊勢大輔の子孫は、出世し、
祝福された人生を送った人が多かったというのに、
大姫御前だけが、こんな田舎者になってしまったのは何とも哀れで、切ないものである。
原文
伯母事(つづき)
程経て乳母おとづれたり。あさましく心憂(こころう)しと思へども、いふかひなき事なれば、時々うちおとづれて過ぎけり。伯の母、常陸へかくいひやり給ふ。
匂ひきや都(みやこ)の花は東路(あづまぢ)にこちのかへしの風のつけしは
返し、姉、
吹き返すこちのかへしは身にしみき都の花のしるべと思ふに
年月隔りて、伯(はく)の母、常陸守(ひたちのかみ)の妻(め)にて下(くだ)りけるに、姉は失(う)せにけり。女(むすめ)二人(ふたり)ありけるが、かくと聞きて参りたりけり。田舎(ゐなか)人とも見えず、いみじくしめやかに恥づかしげによかりけり。常陸守の上(うへ)を、「昔の人に似させ給ひたりける」とて、いみじく泣き合ひたりけり。四年が間(あひだ)、名聞(にやうもん)にも思ひたらず、用事(ようじ)などもいはざりけり。
任果てて上(のぼ)る折に、常陸守、「無下(むげ)なりける者どもかな。かくなん上(のぼ)るといひにやれ」と男にいはれて、伯の母、上(のぼ)る由(よし)いひにやりたりければ、「承りぬ。参り候(さぶら)はん」とて明後日(あさて)上(のぼ)らんとての日、参りたりけり。えもいはぬ馬、一つを宝にする程の馬十疋(びき)づつ、二人して、また皮籠(かはご)負(お)ほせたる馬ども百疋づつ、二人して奉りたり。何(なに)とも思ひたらず、かばかりに事したりとも思はず、うち奉りて帰りにけり。常陸守の、「ありける常陸四年が間(あひだ)の物は何ならず。その皮籠の物どもしてこそ万(よろづ)の功徳(くどく)も何(なに)もし給ひけれ。ゆゆしかりける者どもの心の大きさ広さかな」と語られけるとぞ。
この伊勢の大輔(たいふ)の子孫は、めでたきさいはひ人多く出(い)で来(き)給ひたるに、大姫君のかく田舎人になられたりける、哀れに心憂(こころう)くこそ。
適当訳者の呟き
田舎者で、良くね?
(田舎者に対する、都の連中の軽蔑がすさまじいですね)
常陸守:
ひたちのかみ。藤原基房、だと書いているところがありました(平家物語に出てくる基房さんとは別人)。
「伯の母」の夫ですが、「伯の父」ではありません。
「伯の父」は、花山天皇皇子の清仁親王の子、延信王(源氏)。
ちなみに検索の結果、「伯」を産んだのが、常陸下向の前と言っているところと、後と言っているところがありました。
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