今は昔、遣唐使として唐の国へ渡った人の中に、
十歳ばかりになる我が子を、一日たりとも見ずには過ごせないと、
その子を伴って、海を渡った者があった。
そして現地でしばらく過して、たくさんの雪が降り積もった、ある日。
男は、外歩きもせずに家の中にいたが、子供は外へ遊びに行き、
その帰りが遅いので、はてどうしたのかと、出て探してみると、
子供の小さな足跡の後方から、その足跡に沿って大きな犬の足形があって、
ある地点で急に、子供の足跡だけが見えな くなっている。
足跡が山の方へ行くのを確かめた男は、
(これは虎が、我が子を喰うたのだ)
そう思って、やるせなく悲しがり、
ともかく太刀を引き抜いて足跡を追って山中へ入れば、
ある洞穴の入口で、食い殺した子供の腹を嘗めながら、虎が伏していた。
男は、太刀を手に走りかかると、虎は逃げることなく、腕に力を込め屈まったため、
太刀でこの頭を打てば、鯉の頭を割るように、虎の頭は割れた。
だが虎はなおも、横合いから食いつこうと襲いかかるので、
さらに背中を打てば、虎は背骨を叩き割られ、くたくたになったのである。
そうして、死なせてしまったとはいえ、とにかく子供を脇へはさんで、男は家へ帰った。
この姿に、その国の人々は、怖れおののくこと限りない。
唐の国の人は、虎に出会えば逃げることさえ難しいと言うのに、
このように虎を打ち殺し、子供を取り返してきたのだから、たいへんなことだと言って、
なんと日本の国は、兵の道の並びなき国であると褒めそやしたが、
男にしてみれば、子供はすでに死んでしまっているため、どうということでもなかった。
原文
遣唐使子虎に食わるゝ事
今は昔、遣唐使にて、もろこしにわたりける人の十ばかりなる子を、え見であるまじかりければ、具してわたりぬ。さて過しける程に、雪の 高くふりたりける日、ありきもせでゐたりけるに、この兒のあそびに出ていぬるが、遅くかへりければ、あやしと思て、出て見れば、あしがた、うしろのかたから、ふみて行たるにそひて、大なるいぬのあしがたありて、それより此児のあしがた見えず。山ざまにゆきたるを見て、こらは虎のくひていきけるなめりと思ふに、せん方なく悲しくて、太刀をぬきて、あしがたを尋て、山の方に行てみれば、岩やのくちに、此兒をくひころして、腹をねぶりてふせり。太刀を持て走りよれば、え逃げていかで、かひかがまりてゐたるを、太刀にて頭をうてば、鯉のかしらをわるやうにわれぬ。つぎに、又、そばざまにくはんとて、走りよる背中をうてば、せぼねを打きりて、くたくたとなしつ。さて、子をば死なせたれども、脇にかいはさみて、家にかへりたれば、その国の 人々、見ておぢあさむこと、かぎりなし。
もろこしの人は、虎にあひて逃ることだにかたきに、かく、虎をばうちころして、子をとり返 してきたれば、もろこしの人は、いみじきことにいひて、猶日本の国には、兵のかたはならびなき国也と、めでけれど、子死にければ、 何にかはせん。
適当訳者の呟き:
切ない話ですね。
遣唐使:
教科書に出てくる有名な遣唐使は、数えるくらいですが、派遣される時にはとりあえず船4隻で編成され、大使・副使・判官・ 録事・知乗船事・訳語生・請益生・主神・医師・陰陽師・絵師・史生・射手・船師・音声長 新羅、奄美訳語生・卜部・留学生・学問僧・傔従・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・柂師・傔人 挟杪・水手長・水手……とにかくたくさんの人が乗り込んでいたようです。子供一人を同伴するくらい、何でもないですね。
ちなみに子供を同伴した、この強い遣唐使の人は、誰だか不明です。
[8回]
PR