今は昔、
紀貫之が土佐守に任じられ、任国へ下ってしばらく経って、
勤めを果たした年のこと。
貫之はその地で、七八歳になる、たいへんかわいらしい子供を、
この上もなく愛おしみ、慈しんでいた。
ところがこの子が急に病気になり、死んでしまったため、
貫之は泣き惑い、病気にならんばかりに子供を思っているうち、月日は経って、
こうしてばかりもいられない、上京しなくてはと思ったものの、
あの子がここ何をして、どうして――と思い出されるにつれて、何とも哀しく、
それで柱に書き付けたのは、
都へと思ふにつけて悲しきは帰らぬ人のあればなりけり
――都へ帰ろうとして悲しく思われるのは、帰らぬ人のいるためです
そのように書き付けた歌は、今も残っているという。
原文
貫之歌の事
今は昔、貫之が土佐守になりて、下て有ける程に、任果の年、七八斗の子の、えもいはずをかしげなるを、限なくかなしうしけるが、とかく煩て、うせにければ、泣まどひて、病づく斗思こがるゝ程に、月此になりぬれば、かくてのみ有べき事かは、上なんと思に、皃(ちご)の爰にて、何と有しはやなど、思出られて、いみじうかなしかりければ、柱に書つけける
都へと思につけて悲きは帰らぬ人のあればなりけり
とかきつけたりける歌なん、いままでありける。
適当訳者の呟き:
歌が続きます。しんみりと。
この歌は現代語訳が不要だったかもしれません。
紀貫之
言わずと知れた「土佐日記」の作者。
醍醐天皇の命で、勅撰の古今和歌集の選者になり、序文を書いたりしました。時代的には、菅原道真が左遷された辺から、平将門が暴れ回っていた頃に活躍します。
ちなみにこれは、そのまま土佐日記に出ている話です。そして土佐日記によれば、亡くなった子は、女の子です。
廿七日、大津より浦戸をさして漕ぎ出づ。かくあるうちに京にて生れたりし女子こゝにて俄にうせにしかば、この頃の出立いそぎを見れど何事もえいはず。京へ歸るに女子のなきのみぞ悲しび戀ふる。ある人々もえ堪へず。この間にある人のかきて出せる歌、
都へとおもふもものゝかなしきはかへらぬ人のあればなりけり
又、或時には、
あるものと忘れつゝなほなき人をいづらと問ふぞ悲しかりける
[6回]
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