これも今は昔、
丹後守保昌が任国へ下る際、与佐の山で、
一騎の、白髪の武士に行き会った。
道の傍ら、木の下に、馬にまたがったまま佇立しているので、
国司の郎党たちが、
「あの年寄はなぜ馬から下りぬのだ。怪しからぬ奴。
咎め立てて、引きずり下ろしてやる」
と言うが、国司の保昌は、
「一騎当千の騎馬武者が立つようではないか。ただの人ではない、とがめるでないぞ」
と制して行き過ぎた。
と、三町ほど行ったところで、
大矢左衛門尉致経(むねつね)が、大勢の兵士を引き連れてやって来るのと出会った。
国司たる保昌が会釈すると、致経が言うには、
「この辺に年寄が一人でおりませんでしたか。この致経の父、平五大夫にござります。
頑固な田舎者なれば、作法も知らず、無礼な真似を致しかねませぬ」
と告げた。
そうして、致経が行き過ぎた後で、保昌は、
「やはり、彼は然るべき御人であった」
と言ったという。
原文
丹後守(たんごのかみ)保昌下向の時致経(むねつね)の父にあふ事
これも今は昔、丹後守保昌(やすまさ)、国へ下りける時、与佐の山に、白髪の武士一騎あひたり。路の傍なる木の下に、うち入 れて立てたりけるを、国司の郎等ども、「この翁、など馬よりおりざるぞ。奇怪なり。咎めおろすべし」といふ。 ここに国司の曰く、「一人当千の馬の立てやうなり。ただにはあらぬ人ぞ。咎むべからず」と制してうち過ぐる程に、三町ばかり行きて、大矢の左衛門尉(さゑもんのじょう)致経(むねつね)、数多の兵を具してあへり。国司会釈する間、致経が曰く、「ここに老者(らうじゃ)一人 あひ奉りて候ひつらん。致経が父平五大夫に候。堅固の田舎人にて、子細を知らず、無礼(むらい)を現し候ひつらん」とい ふ。致経過ぎて後、「さればこそ」とぞいひけるとか。
適当役者の呟き:
ほうほう。
丹後守保昌:
たんごのかみやすまさ。
藤原保昌、平井保昌とも。大江山の鬼退治・源頼光四天王の一人で、
有名な盗賊、袴垂保輔の兄。
しかも色男。
後に結婚する和泉式部から、御所の紫宸殿前の紅梅を手折って欲しいと頼まれ、苦労して一枝を手折ったところ見つかってしまい、矢を放たれつつも、辛うじて紅梅を届けたという伝説がありまして、今でも現役の京都祇園祭の山鉾「保昌山」のモチーフとなっているのだそうです。
そうなんだ!
ちなみに保昌が丹後守に任じられていたのは、寛仁4年(1020年)からの4年間っぽいです。藤原道長が出家、隠居して、その子供の頼通が関白、左大臣になる頃です。まさに藤原摂関政治の頂点。
与佐の山:
酒呑童子で有名な、大江山のこと。京都府丹後半島の付け根に位置する、与謝野町、福知山市、宮津市にまたがった連山――与謝郡にあるので、「与佐大山」とも呼ばれていたようです。
保昌さんは丹後守として行くので、大江山、与佐山があるのは、任国の南のはずれですね。
大矢左衛門尉致経:
おおやのさえもんのじょうむねつね。
平致経。平致頼の子で、「大箭ノ左衛門尉」と称された武勇の士。伊勢や尾張を本拠として平正輔という同族らとあらそったそうです。
平五大夫、平致頼:
伊勢平氏の祖・平維衡と争うなどして、しかも藤原道長暗殺計画の実行犯だという噂が流れたほどの荒武者。
平安時代後期の「続本朝往生伝」に源満仲・満政・頼光・平維衡らと並び「天下之一物」に挙げられ、また鎌倉時代「十訓抄」では、源頼信、藤原保昌、平維衡と並び称されている豪傑。
やはり、ただのぼけ老人ではありませんね。
[11回]
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